セクハラとはまさしく優生学ではないだろうか

昔の話ばかりでは面白くありませんので、今感じている事を少し述べようと思います。

セクハラという言葉が社会に完全に受け入れられた感じがする。と同じ時期から人権という言葉がテレビの中から聞こえなくなったような気がしてならないのです。セクハラとは女性が男性に言う言葉であって、男性が女性に向かって言う場合はこじつけ以外のなにものでもない様です。

同じ事を男がやっても、内容では無く行為をした男が問題なのだ、とも公然と言われるようになって来た様です。要するに女性がどう感じるかが問題で、感覚の世界に入ってきた訳です。女性に嫌いと言われては成すすべが無いといった様子で、男にとっていかに女性に好きと言ってもらえるかに全てがかかってきた訳です。

男の大変な努力が始まったように思えます。しかし一歩退いて考えてみますと、生物界ではメスがオスを選ぶのは基本ですし、優秀な子孫を残すためには当然な自然界の営みな訳です。人間だけがこの当然の法則から外れ暮らしてきた事の方が異常なのだと思います。

人類も古来から色々なやり方で優秀な子孫を残す方法を生活の中に知恵として取り入れて来たように思えます。代表的な例にお祭りが挙げられるのではないですか。世界中何処の部族にもお祭りがある様に思います、そして共通するものに、【お酒、踊り、夜、】があるように思うのです。朝からお酒を飲みそして踊れば大変な体力を必要とします、体力の無い者は寝てしまい淘汰されてしまうでしょう、頑健な者だけが夜に行われる女性との交わりに参加できる訳です。また知恵のある者も上手にすり抜けて参加するでしょう。お祭りは必ず食べ物を手に入れた後に行われているのではないですか、食べ物は手に入った、さあ今度は子孫繁栄だという事だと思います。

地球上には色んな人種がいたと思うのですが、部族間の戦いの中で優秀な子孫を残せなかった人種は滅んでいったのではないでしょうか。

19世紀になると戦いも集団化し、19世紀末になると優秀な多くの男が兵隊として死んでいくために、子孫の脆弱化という事を恐れ、いかにして優秀な人材を育てるかという事から優生学が生まれたようです。しかしながら現実は弱者切り捨てという事態になってしまった様です。

ダーウィンの進化論が出てまもなくの頃から、色々な学者が優生学を唱えてます。イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、また北欧の国々でも盛んに唱えられ、ほとんどの国が問題のあるといわれた人々の避妊手術を半ば強制的に行っています。

優生学者の多くは人類の脆弱化の一番の原因はは戦争であるとして、戦争反対を唱えたようです。ところが現実は皮肉なもので、ヒットラーに利用される結果となり、ユダヤ人の虐殺へとつながっていくわけです。その結果、優生学、ナチス、人種差別、虐殺、極悪、という風につながるレッテルを貼られてしまったように思われます。

弟2次世界大戦の虐殺という現象の結果大きく浮かび上がったのが、【人権】という思想だと思うのです。この人権という言葉が、水戸黄門の印篭のような状態になってしまったのだと思います。討論会でも、それでは人権はどうなるんですか、とか。貴方の言っている事は人権に触れますよ、といわれると沈黙しか無い状態が続いたように思います。人権という言葉の前に世の中が活きずまって来たように思うのです、特に経済界が。

日本社会の構造改革が叫ばれて久しくなります、今度の6月の選挙でも多いに議論の的になりました。しかしながら、小泉元郵政大臣が言っておりましたが、構造改革は出来ないでしょう、このままいけば日本経済は破綻するでしょうが、破綻するまでこのままの状態でしょう、と暗に経済が破綻する事を明言していました。その様にはっきり述べた日本人は私の知る限りでは小泉氏だけだと思います。ただ私もその様に思っている一人です。今は日本経済が破綻した後の事を考えております。

明治政府は富国強兵の基、色々な政策を行ってきました。その延長線上に太平洋戦争があるのは事実でしょう、しかしながら国民の教育という大きな財産を残してくれた事も事実です。戦後の経済復興の原動力はこの教育です、戦争で経済は崩壊しましたが人という財産は大変なものがありました。その教育を受けた人が経済を大きくしバブルという言葉を生みました。しかしながら私はバブルとは思っていません、戦前が残してくれた教育という資産を使い果たしたのだと思っています。その教育が残してくれた経済というお金の資産も全て使い果たし経済が崩壊した時、日本という国にいったい何が残るのでしょう。

地球全体の平均的国家からみても、国民に飢え死にする人が出るのが当然のような気がします。日本という国もその様になるのでしょうか。

人権という言葉で身動きできないでいる所に、セクハラという言葉が風穴を開けてくれそうな気がするのです。女性に素敵と言われる男になれと言って尻をたたかれているように思えるのです、優秀な男になれと、すなわち優生学なのです。もちろん人類全体を優秀にする訳ではないですが。

ナチスが壊してしまった優生学というものを見直すきっかけになるのではないかと思っています。男が思考的にとらえた思想というもののいきずまりを、女性の感覚的な意志が打開するように思うのです。セクハラという言葉がその第一歩のような気がしてならないのです。


戻る