マニアルが無いという事は国策が無いという事かもしれない

(いじめについて

私たちの生き方に一定の価値観が無くなったのは確かなような気がします。個々の判断で行い、個々が責任を取るという事なのでしょう。しかしながら自分の道を一つ一つ選択し選んで進むという事はそれだけで大変な事柄です。その行為に耐えられない人も出てくるのではないですか。

学校に【いじめ】と言う問題が起きて20年が経つと言われます、しかしながら解決されるどころかますますひどくなる一方のようです。

これも見方を変えれば、学校教育の基準に偏差値と言うものがありますが、これがそもそもいじめの一つではないでしょうか。偏差値が低いという事はそれだけで十分ないじめだと思うのです。そうしていじめられている人間が別の形で反撃しているとは考えられませんか?

生物は生きるという事だけで十分に戦っている訳です、戦うという事は勝者と敗者ができる事ですし、敗者すなわちいじめられる者になる訳です。学校とはそういった人間社会の訓練期間だと思うのです、人間は社会という戦場で戦っている事は紛れもない事実です、勝ったり負けたりしながらもいつかは勝者と敗者に別れていくものです。そういった現実に徐々に慣れるための訓練期間が学校でもあると思うのです。

経済が順調で右肩上がりの時は日本全体が勝者であった訳で、国民全体が勝者になり得たのです。ですから、経済的な余裕から精神的な余裕も生まれ、心も温和になりいじめも少なかったと思います。しかしながら、経済の陰りと共に人の心もすさんできたのでしょう、いじめもひどくなって来たのではないですか?

もっと以前の太平洋戦争後のまもなくの頃は、ほとんどの人が貧しく、貧しいのが当然という世の中でしたから、ほとんどが弱者でそれぞれが協力しなくては生きてはいけない時代でしたから、いじめもなかったと思います。

もう一つ国民の甘えの構造も見逃せません。一つの例が、いじめられている子供の親が、自分の子供がいじめられている事を気がつかず、他人(学校の先生)が気づかなかったと言って非難していますが、これはまさしく甘えの見本と言えるのではないですか。親は子供という者を命を懸けて守ろうとするものがあってこそ、初めて成り立つ事柄ばかりだと思うんです。動物の原点は子供が一人立ちするまでは親が食べ物を与え、徐々に環境に慣らしながら一人前にする訳です、その間は目を離さず注意深く見守る訳です。子育ては親が全責任を持って行うものでしょう。

個々の判断で行い、個々の判断で責任を取ると言う事は、自分自身は自分で守るという事でもある訳です。これとて警察力を頼らないというほど極端な事でもなく、法律以外の部分での話である事はいうまでもありません。

たとえ話で申せば、我々はボクサーだと思うんです。ボクシングと喧嘩の違いはルールの或る無しだと思うんです、同じ殴り合いでも殴って良い所と悪い所を決めて行うのがボクシングで、まさにルールの中の闘争がこの社会だと思います。当然力の違いの大きいものは戦いを避け、そして傘下に入る事になる事が一般的でしょう。ボクサーはリングに上がった以上勝たなくてはいけないのです、負けてしまって相手が卑怯だとか色々いいわけをしてはじまりません。ルールの境界線ぎりぎりの所をねらってくるのは当然でしょうし、勝ってこそその価値が生まれてくるもの当然でしょう。

強い者と弱い者という現実を認めてこそ、弱い者をいたわるという心を生まれるでしょうし、優しさも生まれるものだと思います。平等という概念では強者も認めない代わりに、弱者も認めない訳です。日本の昔の軍隊は何事も連帯責任として、一人の失敗はそのグループ全体の責任として、全員が責任を取らされた訳です。まさに弱者という者を認めない典型だと思います。

自ら弱者である事を認めてこそ、いたわられている自覚も生まれるでしょうし、感謝の心も生まれるのではないでしょうか。現代はいたわられる事も権利だと言っているような気がしてなりません、これこそ甘えの構造そのものではないでしょうか。もちろん、強者が弱者をいたわらねばならないという事は申すまでもありません。

今の学校の原点は平等にあると思うんです。運動会でも1等2等を付けないと聞いています、強者を認めないという事でしょうが、それはすなわち弱者も認めないという事です。まさしく旧軍隊の体質ではないでしょうか。そこにいじめの本質があるように思うのは私だけでしょうか?

 


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