お金を稼いだ話し−其の参−

私の明らかな医療ミスも隠す事はありませんでした。歯の神経(正確には歯髄と言います)をとった事は多くの人が経験あると思います。はなはだ一般的な治療法ですが、その際空洞になった穴の部分をある材料で埋める訳です、この時密閉するためにかなりの圧力を加えるのです。この圧力で歯根がたてに割れてしまったのです。3度とも同じ失敗でした。

この事実を補助者から患者さんに正直に何ら隠す事無く説明してもらい、その後に私が謝りに行きました。私は謝るだけです、その他の言葉は一切吐きませんでした、ただ丁寧に謝るだけです。

補助者はもちろんその時その時の一番有能な者を選んで前もって指導をしていました。それは自分の心の弱さを十分に知っており、自己弁護につながるようないいわけをついしてしまいかねない恐怖感を感じていたからです。ですから補助者に任せたのです、もちろん補助者には私の心を十分に伝えて、患者さんには十分に誠意を持って丁寧に誠実に説明するように、前もって教育していました。補助者に一番強く言った事は自分でやった行為ではないので、弁護する気持ちにはならないだろう、だから私に代って説明してほしいと言う事です。自分の心の弱さというものを十分に伝えていた訳です。

治療のやり直しの方法から治療完了の状態まで、補助者に説明してもらい患者さんに納得して頂いてから、私は謝りにいきました。もちろん心から誠実に謝った事だけは事実です、もちろん謝ればすむと言う事ではありません。患者さんに訴えられたらいつでも歯医者は辞めるつもりでいました。

私の心の中に自分の行っている治療行為が正しいという意識はまるでありませんでした、ただ他に方法が無いという事です、放って置くよりはマシだという事です。また自分の行っている治療行為の結果も、頭で考えている理想とされる状態には決してなりません、その状態にどれだけ近づけるかと言う事です。所詮妥協の産物でしかないのです。ですから尚正しくはないのです。

歯医者の仕事と言うのは、最終段階で必ず異物を装着するという行為が存在する訳です。歯に異物を詰めるとか、冠をかぶせるとか、あるいは入れ歯を入れるとか、と言う事で終わる訳です。これは物を作るという職人の仕事なのです。どのような物を作る職人の方でも自分の中に理想の形があるはずです、その理想の形に近づこうとして努力をする訳ですが、あくまで近づく事であって一致はしません。

ですから私の歯科治療行為は妥協の産物なのです。所詮患者さんが納得し受け入れて下さるかと言う事です。何処まで行っても所詮ヤブなのです。その上経済という厄介の物までついてきます、健康保険というものはすべて値段がきまっています。

たとえ話しでいえば、家の値段がきまっています、材料は指定されていますが、それ以外は定められていません。細かい事を言えば釘を何本使ったかの世界でした、打った数だけその原価と技術料が頂けます、下手で釘をたくさん使った方が多くの技術料が頂けるといったしくみでした。今は多少是正されているかもしれません。

もちろんどのような職業であっても、それぞれ多くの問題を抱えながら行動している事と思います。ただ私はいつでもその職業を辞退する覚悟を持って、患者さんの治療行為を行っていたという事です。それが国家から与えられた特別の資格をもらって、職業として行為をしている人間の務めだと思っていました。

まして自分が行っている治療行為が決して正しいと思っていない訳ですから、裁判で争う事ではないと私は思っていた訳です。患者さんに訴えられ裁判になったらいさぎよく歯科医を廃業するつもりでいました。神様が私に休養していいよといってくれているのだと、そんな風に考えていたようです。

普段から、患者さんにも直接に、私のやっている治療行為は決して正しくはないのだ、たとえ最終段階まで治療し終了しても、決して元に戻る訳でも無く、抵抗力も低くなり、以前よりも病気になりやすい状態にしか戻らないのだ、だから虫歯にも歯周病にもならない様にする、予防のための健康管理が大切なのだ、と言い続けていた事は確かです。

幸い三人の方ともに何一つ不満を言う事無く心よく受け入れて頂きました。これも人との巡り会いだと思っています、きっと良い人と神様が巡り会わせてくれたのだと思います。あるいはこれも時代のなせるわざなのかもしれません、20年も前だからこのような心の結びつきが存在した事で、現在であったらどのような結果になったのか分りません。しかしいつの時代でも神様が存在するとは思っていますが。

多くの方にこの診療室に来て頂きました。しかしながら全ての方が受け入れてくれた訳ではありません、せいぜい40%の方が受け入れて下さったぐらいだろうと思います。私はそれで良いと思っています。自分を表現するという事は、敵も出来れば味方も出来るという事です。常に全ての人の受け入れられようとする事じたい無理がある訳で、トラブルの原因はその辺にあるようにも思うのです。

物理的には解決不可能な部分を埋める心のつながりといをうか、信頼関係があってこそ成り立つ事だと思うのです。言葉で表してしまえばこの人が失敗したならば納得できる、というようなそんな気持ちでしょう。

当時の私は健康保険という国家の医療制度に大変な不満を持っていました。この制度を何とか改革したいと思っており、現実をより多く知りたいという思いと、全てを健康保険で医療行為をしながら、厚生省と喧嘩をするデータを集めたいという野心からこの診療所を開設したのも事実でした。

 


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