お金を稼いだ話し(其の四)

続きです。

   昭和50年代の前半は歯科医が世の中特にマスコミからいじめられた時代なのです。確かに歯医者の絶対数が少なく、どこの歯科医院もものすごい混雑で、歯が痛いといってもなかなかすぐには見てもらえないといった、今では考えられない社会環境にあり、歯医者のおごりも確かにあったようには思います。

  歯医者の仕事という物は現実には医療行為の中のほんの一部であり、厚生省との折衝も医師会の後ろについてなんとなくしているというのが実態です。当時医師会の会長であった武見太郎氏が政治的にも大変な力を持ち、厚生省に圧力をかけながら医師がストをやったり、歯科医師会の会長であった中原実氏が脱健康保険と言って、健康保険での診療を拒否しようと言ったりした事は事実でした。

  今思えばかなり乱暴な事を言ったとも思いますが、当時は内部にいますと、もっともと思う点も多くあったのも事実でした。健康保険という制度もかなり問題点が多く、不備な点を感じずにはいられなかったのも又事実でした。

  私も30歳前後の3年間診療所を開設したときは、健康保険では十分な治療が出来ないと言って、差額診療というあいまいな表現で何がしかの費用を頂いていました。当時そういった形態が一般的であり、当然の行為として厚生省も認めていたように思います。

  そういったあいまいな形にして医療費の国の負担を少なく抑えようとした国策だったんだろうと思います。しかしこの曖昧さは歯止めが利かなくなったのも又事実だったんだろうと今にして思います。

  たとえ話で申します。交通ルールのスピードを40キロ制限とします、しかしそれでは経済効率が悪いので50キロぐらいまでは目をつぶるよ、と言う事なのです。現実の日本の交通事情はそれに近いものがあると思います、まあなんとなくお巡りさんが取り締まってくれますので、それほどルールが乱れること無く玉虫色に過ぎているように思います。

  ところが医療の世界ではお巡りさんがいませんでした。最初は40キロ制限のところを50キロぐらいで走っていたように思います、ところがそれが60キロになり、ついには80キロになっていき、とうとうマスコミの槍玉にあがってしまったといった感じがします。人というのはいかなる場合でも甘い方に流れやすいという見本のような現象でしょう。

  現実に歯科医師が少ないという現実にあぐらをかいた我々の悪い点も十分にわかっていました。私も若かったんだと思いますが、そういったあやふやな制度そのものの欠点を暴くこと無く、単に歯科医師のみを責める社会に対しても腹を立て、新聞社に出向き新聞記者と話したところ、私の実名入りでかなり長いコメントが新聞紙上に載ったりした事もありました。

  又、NHKに出向こうと仲間を5人ぐらいほしいと言って集めようとしたことがありましたが、一人も集まらず断念したこともあります、一人というのはいかに力が無いかと思ったので事実でした。又自分があやふやなルールの中で行動し追及されては困る部分もあったのも事実でした、そういった要素をもちながら、仲間がそれぞれに診療所を経営している訳ですから、二の足を踏むのもわかります。又自分の行動にも力がななったのも事実でしょう。

  こういった事柄も最初の診療所を閉めた原因の一つではありました。その後どういった歯医者になったら良いか悩みが始まったわけです、そのことは前に述べました。

  前回開院した時は玉虫色の経営をしたために、自分の行動に制約がおき、発言もしにくく、思ったような活動が出来なかった事を反省し、法律に触れる事はどんな些細な事であろうと一切しない、という方針を打ち出し、経営も全てガラス張りにして行い、税務調査に見えた税務署職員に対しても、あなた方は社会のルールの審判なんだからしっかりと頑張ってほしいと言って、笑われたことがあります。頼んでいた税理士さんにもこんな税務調査は初めてだと驚かれました。

  開院しますと一年以内に必ず厚生省の審査があるのです。新規指導という言葉を使っていました、この言葉も玉虫色だと思います。患者さんのカルテを持参し、ある一定の場所で診療内容の審査を受けるわけです。おまえ達は国の管理のもとにあるのだぞ、という事だと思います。

  私は能率をいかにして上げ、コストを下げるかに集中した診療室でしたから、治療の絶対量は普通の歯医者の3倍はありました。ですから目立ったのでしょうすぐ槍玉にあいました、厚生省の技官がきて「こんな事が出来るわけが無い、君は名人か」と言うのです。私は申しました「そんなことは知らん、治療行為のみを明記してあります」と答えたことを覚えています。その後しばらく持参したカルテとレントゲンフイルムを見比べていましたが、黙って去っていきました。レントゲンフイルムをみながら治療結果の不備な点を探そうとしたのでしょう、立ち会った健康保険の審査の係りの歯科医師(知らない方です)唖然としていました。

  私は厚生省の技官に対し、この方が当面の私の敵になる方だな、という感じでいたように思います。ですから一歩も引かないぞという気構えでいた事だけは確かです。

  ところが時間と共に厚生省とけんかする意欲がだんだんと失せていったのです。歯医者が楽な方に流れたためにマスコミにたたかれる様になったと述べましたが、患者さんも又、楽な方に流れる事には変わりが無かったのです。患者さんという者もいかに我侭な者かという事です、途中でこなくなるし、入れ歯は道具ですから、それを使いこなすまではそれなりに努力も要るわけです、ですが簡単に捨ててしまうし、いかに無駄が多いかという事を知らされました。

  それまでは何がしかの費用を頂いていましたので、患者さんも協力的で頑張って下さったのだなと思いました。私は同じ事をしていたのですが。タダより高い物は無いとはこういう事かと思い知らされた感じです。日本の医療制度もまんざら悪くは無いと思い始めたのです。

  私は人個人は好きなのですが、組織として集団で行動することに急激に興味を失っていったのです。政治にも興味を失いました。ですが選挙には今でも必ず行きます。

  しかしこのときまでは数年の時がたっていましたので、それなりのお金を蓄えていました。やはり厚生省と戦うためにはそれなりの費用が必要だろうと思っていたわけです。そのお金だけが残ってしまいました。

  その辺も人生の不思議さを感じます。私が厚生省と戦うぞなどと思わなければ、きっとお金を蓄え様とはせずに、スポーツカーとか色んな物に消費し、お金は残っていなかったろうと思うのです。ところがそこそこのお金になり資本になる位の金額になると、何か事業を起こしたくなり、簡単には消費しにくくなったのです。それが事業を始めるきっかけになるわけです,しかし事業の事には今回は触れません、機会を改めてお話したいと思います。

  歯科医療についてもう一つ子供に対する事柄に触れないわけにはいきません。この件に関しては家内の力を大いに借りましたので、家内の話をしないわけにはまいりません。

  次回にします。 


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