アメリカの大統領選挙に思うこと(民主主義について)

  ベルリンに壁が無くなり東西のドイツが一つになり、ソビエト連邦が崩壊しロシア以下多くの国

に分かれ、中華人民共和国も資本主義的要素を取り入れ、共産主義国家と言える国が北朝鮮とキューバぐらいになったように思います。その北朝鮮もなんと無く統一の機運を感じはじめているこの頃です。

  国家の基本を決めていた民主主義とか共産主義と言われた時代は冷戦の終焉と共に終わり、共産主義国家という表現を聞かなくなったように思うのです。もはや共産主義国家というものは崩壊したと言っても過言では無いと言っても、言い過ぎではない時代と言えるのではないでしょうか?

  セクハラとはまさしく優生学ではないだろうか、との欄で人権という事について少し述べましたが、民主主義も共産主義もその原点は人権と言う発想にあると思うのです。そして国家というものの基準を国民一人一人におき主権在民と言う形を取ったわけです。

  国家というものが国民一人一人の為にあるものだという事に異議も不満もあるわけではありません。ただ国民一人一人が国家という物を考えているかという事なのです、私の考えでは残念ながら国家という意識をもって選挙を行なっている国民は全体の2割から3割で、7割から8割の方はまず自分に有利に働いてくださる方という事が基準で、国家のためにととか国民にとって役に立つ有能な方と言う意識ははなはだ少ない、と言っても過言では無いと思っています。

  選挙も自立する為の戦の一部であった頃はそれでもまだマシだったように思います。少なくともまだ自立しようとしており、社会に対する依存型の国民は少なかったように思うのです。所が最近は社会かもしくは国家という物に依存している人が多くなり、ますます増加傾向にあるように思えてなりません。

  人には常に向上心というものがあります。そしてそれは人が生きるという事に対しかなり大切な要素になるという事も否定できないでしょう。向上心というものの見方を変えてみますと、現状に対する不満というものと裏腹の関係にあるとも言えるのではないでしょうか?

  逆な言い方をすれば人は常に不満を持って生きる者だとも言えるという事です。ですから要求は常にエスカレートするでしょう。特に依存型の人間は依存している対象物、あるいは対象者に対して常に注意を自分の方に向けておく必要があるわけです、その目的にもっとも効果的な方法は不満を言い続ける事なのです。

  民主主義も共産主義も原点は人権というものにあり、国家というものがあってこそ個人があるのだという発想が基本とするならば、国家を構成する人々がまず個人を優先させるという現状では、そのシステムに無理があるといっても過言では無いように思うのです。

  ソビエト連方が崩壊し共産主義国家というものが事実上存在しなくなったと言う事は、民主主義国家も崩壊する方向に向かっているとも言えるのではないでしょうか。アメリカの大統領選挙の混乱を見てなおそのような考えを深く持つにいたりました。

  共産主義国家の崩壊は上の方からといいますか、指導者の上層部から崩壊したわけですが。それに比較して民主主義国家は選挙という形で国民を依存型にしてしまい、一般大衆の意識から崩壊させる結果となってしまうため、これを病気にたとえれば共産主義国家は急性疾患であり、民主主義国家は慢性疾患と言えるでしょう。病気というものは急性は治りやすいですが、慢性は治りにくいというのも事実です。

  34歳の時日本の健康保険という医療システムの不満を持ち、厚生省と戦おうとした話をした事がありますが、その意識をなくしたとき選挙という政治システムに疑問をもち、今日のような日が来るのではないかと予感したことは事実です。そしてその頃から政治とはあまりかかわらず経済のみに限定して(政治に関係のない経済などありえないのですが)生きてきたようにも思います。

  去年(1998)の6月に中国に行き、雲南省の混明という所の世界花博を見る機会を得て、たまたまそこの花を作ったのが友人であった関係から、友人の研究テーマの一つであった高山植物の見学にビルマとの国境付近まで旅をして、花の美しさも然ることながら3500メートル付近で暮らす人々に接し、改めて国家とか幸福とかを考えさせられました。

  わずか2週間ほどの旅でしたがその間にどれほどの民族に接したでしょうか、正確な数字はわかりませんが、まさに多民族国家であるという観は想像以上でした。そしてそれぞれがそれぞれの文化をもちそれぞれの生活を幸福に営んでいる姿は、顔ににじみ出ているように思えたのです。国家というものと民族というものは又別のものであると強く意識させられた次第です。

  中華人民共和国とはまさにヨーロッパ連邦のような国家だと思います。そして共産主義でもない民主主義でもない、新たな国家体制のような気がしてならないのです。そして何よりも驚きは国民すべてが経済的自立人だという事です、国家に依存している人はいない様に私の目には映りました。これは国家として大変なエネルギーです、まして選挙というような経済上あんな無駄なこともしていません、ですからこの国の変化は大変なものがあります。

  ヨーロッパもユーロという通貨を作り一つの経済圏にしようとしているのは明白な事実です、まずは経済から初めて徐々に時間をかけながら政治的にも一つの連方国家を目指しているのかも知れません。片方のユーゴの方では分離独立だと騒ぎながらも。

  日本もつい140年ほど前までは江戸時代であり、小さな独立国家の連邦体でした。それぞれが軍隊と警察権を持ち一つの国の形態をとっていました。明治維新という内乱がおこり、長岡藩などのように独立国家の形態をとり中立といったスイスをまねたような形をとろうとした悲劇などもありましたが、明治政府は自冶権というものを藩に認めず軍事力と警察権を取り上げ、いつのまにか廃藩置県などと称して一つの国家に作り上げてしまいました。

  我々は日本人と称して一つの民族のような気持ちでいますが、江戸時代は江戸詰めの侍は地方の国元の侍との通訳だったとの話もありますし、まして南の九州と北の東北の人間とでは100パーセント話が通じなかったと思います。おそらくヨーロッパ圏の英語ドイツ語フランス語等の言葉の違いよりも、日本の方言の違いの方が数段に大きいように思います。もっとも語学能力のはなはだ乏しい私の推量でしかないのですが。

  明治政府の偉大なところは日本語という標準語を作ったところにあると思います。その言葉の基本においたのが天皇の京都でも薩摩や長州でもなく、敵国であった関東の江戸言葉であった事も成功の原因ではなかったかと思います。日本の方言が地上から姿を消すのも時間の問題ではないかと思うこの頃です。そして国としての藩という意識も薄れ、日本人イコール大和民族というような意識になっているように思います。これは太平洋戦争が残した遺産かも知れません。

  21世紀は中華人民共和国が強大になっていく世紀でしょう。この国は元々多民族国家ですから、太平洋戦争後チベットを併合したように周りの国を吸収することにおいても何ら抵抗はないでしょうし、戦前の日本帝国がおこなった朝鮮や台湾への政策のような悲惨な結果は招かないような気がします。

  いつの日か日本が中華人民共和国に吸収され、中華人民共和国大和省などと言われる日が、私の生きている間に来るのかも知れません。しかしながら経済というものはどんな政治体制であろうとこれからは存在するでしょうし、経済の中で生きている私としては国家というものがどのような形になろうと生きていく自信はあります。そうはいいながらも若い人がどのように考えているか分かりませんが、オリンピックの時中華人民共和国の旗を振るよりも、日の丸の旗を振りたいと思うのは年を取った証拠でしょうか?


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