男女雇用機会均等法に思う事

  先日女子学生とたまたま話をする機会があり、就職の話になりました。確かに雇用は少なく就職戦線は大変な激しさの様に感じます、歯医者の現役の頃といっても1718年も前のことですが、女性の従業員を多い時は8人まで雇っていた事がありますが、当時は雇用する側が大変な時代でした。ただ職種がはっきりしていましたのでそういう意味では楽でしたが。

  女子学生との話の中で「どんな仕事をしたいの?将来どんな生き方をしたいの」との私の質問に、「とにかくズーット仕事をしていたいですね」という答えが返ってきました。と言う事は、仕事をしない選択もあると考えているわけですから、少なくとも専業主婦は仕事では無いと考えている訳でしょう。あらためて仕事と言う事柄を考えさせられました。

  簡単に「仕事」という事を定義してしまえば、「お金を頂くための手段」という事になるのかもしれません。そしてそれは生きるという事のための最小限度の事柄という事になるのだと思うのです。今までも何度も申してきましたが、人も生物であるかぎり生きるための戦いという事から逃れる事は出来ません、食べ物を手に入れるという事は最小限度の行為なのです。

  その最低限度の行為が仕事なのだと思うのです。別の言い方をすれば人も生物であるかぎり食べ物を手に入れる手段として、方法はともかく仕事だけはしないわけにはいかないように思うのです。ところが「ズーット仕事をしていたい」という言葉の中には、今だに心のバブルが終わっていないという事なのかもしれないと、あらためて思わされた次第です。

  もう10年ほど前になるでしょうか、土地の値段が下がり土地のバブルがはじけたと大騒ぎをした時代がありました。その後に出た言葉が価格破壊です。バブルがはじけるという事と価格破壊という事は何が異なっているのでしょうか?内容は同じ事柄でも心情的に異なった事にしておきたいという社会の心情なのかもしれません。

  多分、心情的には地価というものは悪者なのでしょう、ですから地価の価格破壊(バブルの崩壊)は喜ばしい事柄として多くの人の心に映ったのでしょう。経済というものは微妙なバランスの中で成り立っているものなのです。地価の価格破壊が10年という歳月の中で洋服などの物の価格破壊を招き、今は食べ物の価格破壊をきたしている真っ最中かも知れません。

  かろうじて人件費の価格破壊まできたしていないという事なのかもしれません。それが仕事というものに対する認識の甘さにつながっているような気がするのです、何となく時間を過ごしていればお金がもらえるといったような風潮がいまだに消えていない様に思うのです。バブルと言う言葉が生まれる前は、日本人は働きすぎだとよくマスコミが騒いだ様に記憶しているのですが。

  12〜13年前は確かに日本の企業は経済的な数字の上からでは豊か(金持ち)でした、結果国全体が潤っていたのです。日本の企業の多くは楽をして利益をあげようとしたわけです、それが投機でした。これがことごとく失敗に終わったようです、新聞紙上をにぎわしたのがヤクルトでした。会社自体の存続を危うくするほどの損失を受けたようです。ヤクルトに限らず多くの企業が損害を受けているでしょう。トヨタ自動車は投機というものをおこなっていないと思います、これは企業の原点からそれなかった結果ではないでしょうか。

  人の生き方も時代と共に変わっていかなくてはいけないのかもしれません。確かに経済的に豊かな時は豊かな生活というものがあるのかもしれませんが、バブルと言う言葉が生活そのものもバブル(泡)にしてしまったような気がして成りません。これは情報というものも大きいと思います、そういう意味でマスコミの責任も大きいはずです。

  日本人は自らの力で軌道修正するのは大変に苦手な民族だと言われてきました。日本を変えるのは外圧だとよく言われます、それは必要でなくなった時に切り捨てていく事がはなはだ苦手な国民だと言う事でしょう。太平洋戦争中に食料調達の国策としてこの時代に出来た食管法ですらなかなか変える事が出来ず、裁判という事態まで引き起こしながらやっと多少の変化をきたしていると言うのが現状でしょう。

  日本に一度法律というものが施行されると、その功罪はともかくとして修正していくのは大変に困難な国家であると言う事です。多分、その法律の本にその恩恵によくしながら生きている人ができ、その人の生活権というものを切り捨てる事がし難いために、元の法律が現状に適しなくなったとしても切り捨てる事が出来ないのかもしれません。

  日本は元々農業国家です。農業という物は作業に大きな変化は見られず、季節に遅れないように農作業をするという事が一番大切な事柄でしょう。何よりも時期の遅れというものが農作物の出来高に致命的な影響を与えるに違いありません、ですから遅れまいとして隣の作業に合わせる事に懸命に成るのです。そして変化というものをあまり好まない国民になった様なのです。

  それとて国民の中に意識の変化が見られない事もありません。個性と言う言葉が盛んに言われるようになったのもその一つでしょう、生き方にも多様性がでてきたように思います、ですがそうは言いながらも小集団を作ろうとして、よく言えば仲間を作り共通の価値観を確認しあって安心しているという所が見られるように思います。変化していく過程なのかも知れませんが。

  女性の生き方も多様化していくのは事実でしょう。仕事という事柄へのとらえ方も生きるための闘争としてとらえ、経済的にも自立し、逆に男性を養っていく女性も出現するようになるでしょう。ですがパーセンテージははなはだ低く、世の中に普及していくまでにはかなりの時間を必要とする事だけは間違いないように思います。

  ですが、時代の流れの中で、経済闘争の真っ只中に身を投じる女性を必要としているのかもしれません。結婚という制度に破綻の傾向が見られる現在、女性に自立していただく外に、子供と言う者を育てていく手段が無いと言えるのかもしれません。生物界のオスという者は本来オスとしての役目を果たせる能力のある者はほんの数パーセントでしか無いのです、人間とて例外では無いのでしょう。

  その点を色々な規制をする事によって、何とか人間社会だけを特別な形に維持していたと思うのです。経済の事柄を起点として規制緩和と言う言葉を声高に言われました、肝心の経済の規制緩和はなかなか進みませんが、人間生活の規制緩和は大いに進み、多くの束縛を排除してきたように思います。その結果、大いなる束縛を必要とする結婚という制度に破綻をきたしているように思います。

  結婚という制度も明治政府によって富国強兵のもと多くの兵隊を必要とした事による国策として強行に進められた結果の事柄のように思います。「貴方は男でしょ」と言って元来弱い男の尻をたたき、「忍耐は美徳だ」と強い女を抑制して、かろうじて成り立っていたのが結婚という制度であったと思うのです。女性に忍耐などという物を要求する事事態何の意味のない事であることはいうまでもありません、単に兵隊の必要から生まれた国策でしかないのです。

  これからの時代、男と女のかかわり方がどのように成るのか分かりませんが、少なくとも女性が男性を選ぶ時代であることだけは間違いないように思います。人間の生活に腕力というものがものをいった時代は男の方が有利であったかも知れませんが、現代の闘争手段に男女の差はなくなったと言っても良いでしょう。後は今までの生活習慣から来る精神的な事柄に過ぎないと思うのです。

  最初に申し上げたような女子学生に近い精神の女性がまだまだ多いのは現実かもしれません。不況といわれる経済界で女性を受け入れていくのは大変でしょう、少なくとも多くの男は生きるための仕事という物から逃れようとは思っていない様に思います。ただ一人の気楽さから、家族という妻子を抱えながら生きていく大変さから、逃れたいと思っている男が増えている事だけは事実のようです。

  男女雇用機会均等法などという規制が必要でなくなる時代が速く来て欲しいものだと思います。保護を受けると言う事はけして良い事だとは思いませんが、出来てしまったものは仕方がないでしょう。一日も速く、意味のない法律になる事を望んでいます。

 


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