原宿族のなれの果てです

 原宿族?なんですかそれ、竹の子族なら知ってるけど。いや待てよ、竹の子族だって知らないかも知れないなあ。バイクをとばす一団と思われるかも知れないしなあ、どう説明したらいいのかなあ、その時代はそこそこ格好つけて遊んでいた若者の集まりとでも言った方がいいのかなあ。でも若者の集まりと言うほどの事でもないし。

 言葉というものが時代と共に変わり、そのニアンスを伝える事の難しさを感じます。が、深夜なんと無く集まって騒いでいた若者とでもいったらいいのかもしれません。何せ昭和30年代から40年代のことなのですから。当時は深夜起きていると言う事だけで、世間から白い目で見られた時代なのですから。

 24時間営業のコンビニがある時代に、この頃の社会風潮を説明するのははなはだ困難な事のようです。お昼のテレビ番組のはしりに「アフターヌーンショウ」というのがあり、この司会をしていた「桂小金冶」と言う落語家だった人ですが、人が眠っている深夜に表で騒ぐなどと言う事はけしからんと言って、頭から湯気を立てて怒っていたのを憶えています。

 昭和30年になると、もはや戦後(太平洋戦争)ではないという経済白書が出て、世の中に物が豊かになってきた時代です。池田勇人という総理大臣が所得倍増論と言う言葉を打ち出し、経済を活性化させたのは30年代の中ごろと思います。その頃になると色んなファッションが流行し、若者を刺激し始めました。

 その頃、銀座のみゆき通りに当時としてはカラフルなファッションをした若者がたむろするようになったのです。特別に何をするという事も無いのですが、現代の若者がコンビニにたむろしているようなものです。若者はいつの時代でも集まってなんと無く時間を過ごしているようです。この若者を「みゆき族」と言ったのです、たぶん名付け親はマスコミでしょう。でも当時は昼間の集まりであった様に思います。

 その後、六本木に深夜のお店が集まり始めました、もちろんお酒が出て女性が接待してくれる店です。車で(当時、車は一部の人のものでした)若者が集まるようになり、深夜騒ぐようになったのです。当時はディスコと言いましたが、今では若者がクラブと言う、踊ってお酒を飲む所が出来たのです。ここに集まる若者を「六本木族」と言いました。

 いつの間にかディスコが原宿や表参道にもでき、ここにも若者が集まるようになったのです。これを「原宿族」と言ったわけです、「みゆき族、六本木族、原宿族」と流れていったわけです。まあ、マスコミが作った流行語で、「六本木族」と言われた時代が一番長く、一番知られた言葉であったと思います。

 私は中学時代から原宿で育ちましたので、庭みたいなものですから、何となくたむろするようになり、ディスコで踊るようになったわけです。何事ものめり込むのが私の性格ですから、ディスコも例外ではありませんでした。自分ではかなり羽目を外したつもりでしたが、今思えばささやかなものでしたね。ここで知り合った女性は一人もいませんでしたから。

 今の言葉で言えばナンパと言うのでしょうね、私も女性と知り合いたいと思っていましたね。その意欲が多すぎたと言うか、平たく言えばエッチな男丸出しと言った状態であったと思います、まあ飢餓状態でしたからやもう得ないと思いますが。踊りも夢中で踊りましたがその目的の方も大きかったでしょう。若い男はいつの時代でも一緒でしょうが、現代の若者よりも余裕が無かったのではないでしょうか?少なくともスマートでは無かったと思います。

 赤坂の「夢幻」というディスコがあったのです、外人のバンドを呼んで生で聞かせてくれる当時としては進んでいるディスコでした。そこに婚約時代に家内を連れて行ったのです、白っぽい細い縦じまの線の入った上着を着て。暗い中に一瞬ライトが点滅する中で踊ったわけです、大変に目立ったようです。

 とんでもない不良と結婚する事になるのだと思ったそうです。その思いは正しかったかもしれません、今だに不良中年をしているのですから。いや今の方が数段に不良度が増しているかもしれません、何せ時間が多く使えますし、スポーツジムに通いテニスをして体を鍛えていますから。

 若い時に色々なことにチャレンジし経験豊富になる事は良い事だと思います。若い時ディスコに通い踊ったおかげで、いまだに若者とクラブで踊る事ができるのですから。当時のダンスはツイストと言うのから始まったように思います、ツイストは得意でした。音楽に乗る体の動きははいまだにまずまずだと思いますが、パラパラはどうも?

 円覚寺という禅寺で座禅を組んで「人生とは」と考えたり(もとをただせば単に女に振られた事が原因なのだけどね)、ディスコで踊ったり(ナンパもしたかったのだけど、成功は一度もない、非常に残念)、ワンゲルという大学のクラブで一年間山歩きをしたり、お茶のサークルに入り茶道をやったり(そこそこ出来ます)、ボランティアのサークルに入り社会福祉活動をやったり、学生の集まりで人生論や幸福論を論じ合ったり(この仲間で東大の安田講堂にたてこもり機動隊とやりあった者もいます)、まあ幅広く行動しました。

 唯一残念に思うのは女性と一緒に暮らす同棲という経験がないことです。チャンスがあったのだから経験をしておけば良かったと非常に悔やまれます。そんな思いが最初のホームページに書いた「若者よ多いにセックスをしなさい」(はなはだ未熟な文ですね)という文章になっているのだと思います。

 今はテニスに明け暮れ、スポーツジムで筋トレに励み、そして文章を書いて楽しんでいます。そして心のどこかで「俺は原宿族のなれの果てだ」と叫んでいるようです。


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