一年に十日の桜の花

 桜の満開の時期になりました。東京は3月31日にみぞれではありましたが雪が降りまして、午後2時の気温が3度でした。桜を見に行き雪に降られ暖かいお茶をおいしくいただくと言う、桜と雪とを同時に見ながら寒さに震えて過ごす一日でした。ただこの寒さも、桜の花を長持ちさせるお天道様の粋なはからいかも知れないと思えば、寒さも和らぐというものです。

 次の日の4月1日はエイプリルフールと言うのだそうです、いきさつは知りませんが、嘘をついても許される日なのだそうです。その日の朝6時の気温は1度でした、一面に霜が降りているのです。明治神宮外苑の草野球場が一面霜で真っ白なのです、ベンチに前日のみぞれが凍りついているのです、そして手すりには氷柱の赤ちゃんが下がると言うよりも、今まさに生まれようとしているではありませんか。

 空は反対に真っ青です、雲ひとつありません。太陽が今日から4月だぞと言わんばかりに強い光です。朝の6時だと言うのになぜか自己主張が強いのです、昨日まで隠されていたウップン晴らしのようにも感じるくらいに強いのです。3月中はじっと耐えて我慢していたのだぞと太陽は訴えている様にさえ思えてなりません。

 その強い光が霜や氷に反射して光るのです、キラキラ、キラキラ、光るのです、朝の1度という寒さの中で光るのです。今日から4月だボクの季節だと言っている様にすら感じるのです。もっとゆっくりと時間が進みながら淡い光ですませてほしい、という私の願いをまるであざ笑うかのように、光の強さは増す一方なのです。

 グラウンドの周りに桜の木があるのです、その花がほぼ満開なのです。桜の花と霜と氷に光があたっているのです。お天道様は顔を出したばかりです、低い位置からの鈍角の光です、ですから鈍角の反射がなお一層まぶしいのです。桜と霜と氷と光そして寒さ、お天道様はほんのひと時、ささやかな嘘をついている様にさえ感じたのです。

 ほんの数分間の自然現象でした。私はその場にたたずんで金縛りにあっていた事でしょう、きっと口をぽっかりとあけたままで、まさに金魚のような顔をしていたにちがいありません。まさにコッケイな姿の一言であったに違いないのです、人のさまなどという物は自然現象の前には愚かな姿でしかないのだろうと思います。

 桜の木もいろんな姿に表現しています。若いスラートした木もあります、まさにしわ一つ無いみずみずしい肌を感じさせる木もあれば、長い年輪を感じさせるおうとつの激しい肌の木もあります。桜並木の行儀良く並んだ木も一本一本みれば、それぞれ違った表情があり、その場所の歴史を刻んでいるようにさえ思えるのです。

 まだ若々しい細いと感ずる木から、今まさにさかりと思える見事なスタイルと思われる立派な木、そして色んな風雪に耐えてきた事を訴えているような老木まで、さまざまな木が整然と並んでいるのです。一斉に植えられたはずの木が途中で挫折し、植え替えられた歴史があるのでしょう、そう思っただけで時の流れを感じます。

 幹の周囲が3メートルにもなろうと言う老木も何本かありました。若い木や見事なスタイルの木には見られないなんとも言えない味わいがあるのです、肌のしわもさる事ながらこぶがあったり、なんとも言えない曲がりくねった姿があるのです。どうしてそのような姿になったのか考えてみても、想像のつかない形態なのです。

 一つ一つが全て異なった姿をしてそれぞれが何かを表現しているように思えるのです。もうそろそろ百年(正確には知りません)近くたっているのではないかと思われるのですが、その歴史を表現していると思われるその姿は、人間の表現力などはいかに貧弱なものかと思わせるのに、十分な力であるように感じるのです。

 その老木の一本一本の木を前にして、どのようにその木を表現したらよいか思いながら、その木との会話を試みました。が、どのような言葉を使い並べても言い表せないのです、いかに人間の言葉というものが貧弱かと感ずる心が膨らむ一方なのです。自然の表現力の前には人の力のなさを改めて思い知らされたわけです。

 桜の花びらとてその様に感じます。一つの花はたった五枚の花弁からなっているではありませんか(たまたまその種類のようです)、その花が密集して咲いているだけなのです。一つ一つのささやかな力を数という力で表現しているのです、それが逆に大変は表現力となり、同時に淡いさというものを感じさせる事につながっているのかも知れません。

 花もわずか十日ばかりの命です。もちろん桜は花だけではなく実もつけようと努めるのでしょうが、自然のためには花が全てに見えてくるのです。10日ばかりの表現のために350日以上の日々をただ黙々と働き、力を蓄えている様にさえ思えるのです。そして10日間という時間に全精力を傾けている様に思えてならないのです。

 でんとその場に腰を据えもくもくと力を蓄えている様に思うのです、誰に振り返られるわけでもなく自然の片隅でひっそりと。そして1年間蓄えた力を十日間と言う時間に全てを吐き出すべく、全力で全生命力をかけて花を咲かせている様にすら感じるのです。人間の世界の言葉にすればまさにお祭りなのだと思います。

 そして、そのようにたんたんと続けてきた歴史が、老木にはなんとも言えない風情を表しているのだろうと思うのです。だからこそ一本一本の木が違った事柄を土壌や気候から感じ、それぞれに訴える事柄も違って表現しているのだろうと思うのです。それが一本一本の風情となって、我々の心に問い掛けてくるように思えるのです。

 若木には若木の美しさと魅力が確かにあります、そのスマートさは何をおいても美しさとして比較できるものではないかも知れません。そしてそれはこれから刻むであろう歴史への魅力でもあるわけです、若さとは可能性の魅力に他ならないと思うのです。ですが老木の漂わせる風情を強く感ずるのは私が年をとったという事でしょうか?

 ワシントンDCのポトマック湖畔には1912年に当時の東京都知事から3000本の桜が送られ、毎年桜祭りが行われるそうです。そして現在も125本ほど残っているそうです(ワシントンD.Cに住むメール仲間からの情報です)。まさに老木となりながらも、植え替えられたであろう若い木に混じって、その風情のよさを遺憾なく発揮している事でしょう。

そしてその風情は大和民族だけでは無く、人類全体の心を和ましてくれている様にも思えるのです。そして桜の花はピンク色ではなく何処までも「さくら色」(これもメール仲間の表現です)と言いたいのは大和民族の心ではないかとすら思えます。

 地球上の生命体は一瞬の喜びのために、多くの労を惜しみなく行動しているのかも知れません。だからこそ喜びが一層倍加され、感動もひとしおなのではないかと思うのです。生命体として「命を表現している美しさ」であろうと思うのです。


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