生きることを文化にするには

 生命体の原点は食べて、眠って、性行為をする事かも知れません。そこから自然発生的に色々と膨らんで、生活という形態が出来上がっていったのだろうと思います。まずは食べると言う行為が発達したはずです、生物は餓えとの戦いの歴史でもあるようです。ですが食べるという事を満たされてしまえば、後は肥満という害が出てくるわけです。

食文化と言われますが、まずは食べ物の味でしょう。そして器に凝る、又食べ物を巧みに切って芸術的に盛り合わせをして、目で楽しませながら食欲をそそる。毎日食事はしなくてはならないわけですが、一定量を満たしてしまえば、後は目先を変えながら食事を楽しむ工夫をするぐらいしか方法は無く、膨らむといっても所詮限界があるわけです。

 眠るという行為に対しては、その時に使う道具の広がりはもっと狭く、ささやかなものでしょう。結局、最も広がりのあるのは性行為に関する事柄ということなるのです、そしてこれはほぼ無限大に広がると言っても過言では無いと思います。人の生活の原点はまさに性行為と言ってしまっても許されるような気がします。

 もちろんこれは男と女としての広い意味での事として言っているわけです。直接的な行為のみを限定して申しているわけではありません、男女間の知り合う過程から全てを含んでの事柄である事は申し上げるまででもありません。簡単に言ってしまえば女性がお化粧をし、洋服を着飾る事も全て含んでいる事なのです。

 男も体を鍛えることは、もともと食べ物を得やすくするための行為であったはずです。ですが現代は女性の目を引くための行為と言い切ってしまっても良いようにさえ思えます、まさに女性の化粧と同じレベルと言い切れると思います。でもこれはまさに平和の象徴と言えるのではないでしょうか、よき時代だと思います。

 江戸時代は300年弱続いたわけですが、前後を除いた200年ほどは本当に平和な時代であったのだろうと思うのです。その結果、性の文化が花開いたわけです。それに比べて明治以降は戦いと言う戦争の歴史であったように思うのです。これも時代と言うもので単に良し悪しと言えるものではありませんが、その中での生活は明らかに違いがあります。

 戦争の時は、まず性の文化が抑制されるようです、物の生産に最もつながらない行為であるからでしょう。極端に言えば兵隊を作るための道具として、子供を作る事のみに限定する事に、より近づけようとしたとさえ考えられるかも知れません。そうなるともはや生産する機械と変わらないわけです、もっとも戦争とは生産の競争でもあるわけですから理にかなっているのかも知れません。

 それもソヴィエト連邦の崩壊による冷戦の終了により、現実の問題としては終わったように思います。今はアメリカ合衆国の軍事力も世界の警察官としての役割を荷っている様に思われます、軍隊による侵略の時代から、平和と言う秩序を守るための、力の組織に変貌しつつあるようにさえ思えるのです。

 徳川時代の武士が、戦国時代から豊臣時代に役割を演じた、侵略をして領土を拡大していくと言う使命から、組織の維持をして平和という秩序を守る役割に、変わっていった経過と同じような感じがするのです。武士という同じ言葉を使いながらも、その内容は大変な違いがあるように感じてならないのです。

 明治時代から続いてきた戦争で拡大する時代は終わったようです。昔は経済の拡大は領土を広げるという事が絶対的に必要な要素であったのでしょう、ですがいまや経済に国境は無くなった様です、通貨というものも為替が自由化することにより、国籍に関係なく何処の国の株式にも参加する事が出来るようになり、資本が一人歩きするようになりました。

 日本の株式も外国人投資家の思惑で価値が決まってしまう現実があるようです。株が下がった時はアメリカ合衆国の新聞に「日本の株価は10000円を割るだろう」という見出しが付いたそうです、外国人投資家がどんどん引き上げていた時です。それも今は戻ってきたようでなんとか13000円台を回復したようではありますが。

 今は国家予算をも上回る個人投資家の資本が動いているのが現状です。昔は鉄砲、今は金融、が世界の経済を支配しつつあるように思います。江戸時代に富みが大名から商人に移り、結果商人の時代を築いたように、資本を動かす投資家の意のままの時代が来るような気がしてならないのです。結果、文化は元禄文化と言われたような華やかな時代に成るように思います。

 結局は性の文化になるのだろうと思うのです。そしてこれは悪い事ではありません、いえ逆に平和の象徴であるとさえ言えると思います。性というものも人の営みとして隠さなくてはいけないものだとは思えません、その時代の都合により捻じ曲げられた事柄でしか無いと思います、いまや日の当たる場所に出て来つつある時代なのだと思います。

 これからは成人指定映画というものも無くなるでしょう、いえ正確にはそういう言葉がなくなるだけで、映画そのものはますます盛んになりそうです。そうして幼児の時からそういった話題に触れさせ、正しく認識していく事になると思います。そして体の違いだけではなく心の違いも知り、接し方もより高度になってくる事でしょう。

 人の生活の営みに隠しておかなくてはならない事柄がある方がおかしいのです。他人に不快さを与えては成らないといいますが、不快さという事も基準が難しい事です。私は犬を飼い共に生活していますので、犬のにおいはさほど気になりません。嫌いな方にはさぞ迷惑な事とは思いますが、私は犬がかわいいのです。

 チベットに旅をした時ですが、3500メートルぐらいの所に住んでいる人が、たまたまかも知れませんが家畜を家の周りに放し飼いにしているのです。当然家の周りは糞だらけです、まさに足の踏み場も無いとはこうゆう事かと思いました。最初は気をつけていましたが、そのうち私も平気で糞を踏んで歩いていました、私だけでなく同行者も皆同じでした。

 もちろん環境がそうさせるのだろうとは思います。東京の真中で同じ行為が出来るかと問われれば、当然の事として拒否するでしょう、生活の営みの基本が異なっているのですから、比べる方が無理と言うものです。所詮人間は与えられた環境に順応しながら、その中での豊かさを追い求めるものなのですから。

 今までは、人の生活は生産という事が主体に営まれていたと思うのです。そして、それは生活を楽しむという事も犠牲にしてまで、行なわれてきたようにすら思うのです。戦争中の標語「欲しがりません、勝つまでは」ではないですが、物を生産するという事のために私生活を犠牲にする事は当然のような風潮があったようにも思います。

 価値観の多様化と言われてからかなりの時間が経ちました、我々の幸せ感も多様化しているとも思います。家族のために頑張ると言う幸せ感もあれば、一人のんびりと暮らす幸せ感もあっていいと思います。他人には理解してもらえない事柄に夢中になる価値観もあっていいのです、それこそが個性というものでしょう。

 これは私の独断と偏見ですが、太平洋戦争中は不良も存在しなかったと思うのです。国の意思に反する事など許される事ではなかったでしょうから、不良になれる余地さえ無かっただろうと思うのです。一つの事に統一されるのも不気味な感じがして、多少の不良が存在する方が健全な社会と言えるのでは無いかと思っています(自己弁護かな?)

 これからはますます「性の開放」が進みおおらかに営まれる事に成ると思います。私は成人と言う認識も肉体の完成という事に焦点を当てるべき時期に来ていると思います。これも江戸時代のことですが、当時は15歳が元服でした、今の成人式です。そして当時は数え年ですから今で言えば14歳でしょう。私はこれが良いと思います。

 学校も義務教育は中学までですから、働きだす人もいるわけです、当然税金も払っている事でしょう。15歳を成人として選挙権も与えるべきです、十分に大人なのですから。そして女性は10代で子供を作るべきです、相手の男性は20代でも30代でもいいではないですか、そうすれば子育てから開放されてもまだ20代ですから、まだ十分に社会に出て活躍できると言うものです。

しかしこれを阻んでいるのが淫行条例でしょう、1617歳の女性と2030代の男性は交わってはいけないというのです、こんなバカな法律はあるでしょうか?男が本当に一人前に鳴るには30代までかかるだろうと思っているのですが。きっとアメリカ合衆国の禁酒法の様になるような気がします。

 それにお爺さんお婆さんもまだ若くして孫を持つわけですから、子供の子育て(孫として)に十分に協力できるわけです。何よりも親子3代に年齢が近いので会話が弾むというものでしょう、これからは親子3代の母系の大家族時代が来るのではないかと思っています。子育てには一番ふさわしい人の形態だと思うのですが?

 どちらにしても男にとっては肩身の狭い時代になってくるように思います。その前触れがセクシャルハラスメントだと思っています。この事に関しては男の抵抗の方法がありません、切に女性に嫌われないように必死になって振舞う以外に方法は無いのです。嫌いと言う言葉を恐れおののいて生活しているわけです。

 色々言っても結局は、性に関する事柄は女性主導の行為になるのでしょう。女性が受け入れてくれるかどうかで全てが決まってくるのです、平和という条件のもとでは。男が活躍できるのは所詮戦いの場だけなのかも知れません、そして男どうし戦い続けなくてはならないようです。ただその目標が女性に好かれる事になるのでしょう。

 クレオパトラとシーザーの時代から何も変わらないのかも知れません。男は女性に好かれるためにいろんな物をプレゼントするわけです、そのための争いご事を男はするわけです。歴史は繰り返すのでしょう、男と女に関する事柄を言い出すと切りがありません、とにかくこれからは女性に好かれるための、男の努力が続くわけです。

 そしてそれは性の文化として花開くわけです。これは平和の象徴です、素晴らしい事でしょう。ですが戦うしか能の無い男にとって苦難の時代でもあるわけです、女性に好かれるためのあらゆる努力が必要な時代とも言えるわけです。これとて多様化するでしょう、男の多様化の時代がはじまっているとも言えそうです。

 これは性の多様化とも言えるのかも知れません、男は女性の求めるまま、嫌われないように励まなくてはならないのでしょう。とにかく性の文化が花開く時代です、それに無限大の広がりを感じます。これは平和の象徴なのですから男は素直に受け入れて、女性主導型の社会を作り上げていくべきなのでしょう。

 人は「食べて、眠って、性行為を営む」この事をつつがなく営めれば、これほどの幸せは無いのかも知れません。

 

 あとがきです。

 ホームページを書き始めてほぼ一年になります。1年間、文章を書き続けた事によって表現能力が随分と豊かになったように思います、1年間で自分の人生観が変わったとは思えません、表現力の問題だけだと思います。書き始めが「若者よ、おおいにセックスをしなさい」でしたが、同じテーマの文章にしても随分と変わったと思います。

 これも全て人への伝達能力だと思っています。自分というものをより表現し、伝達できる事により、人間関係がより一層の広がりをしていく事でしょう。人間関係の究極が「恋」という事になるのでしょうが、これぞまさしく伝達能力が大きく影響する事柄でしょう。人はいくつになっても「恋心」を失ってはいけないようです、たとえ「老いらくの恋」とバカにされても。

 又、テニスを例にしますが、同じ筋肉でも訓練する事によってボールへの表現力が進歩するのと同じで事しょう。全てこれ皆感性だと思います、心も肉体も感性を磨かなくてはいけないという事でしょう。そういった事も皆、新たな事を始める時の第一歩、「恥をかく勇気」から始まると思います。


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