子育てと介護(A子育てについて)

 良き子孫をのこし集団(国家)を維持するという事ももう一つの大変に重要な問題でしょう。元来生命体というものは自然界の中で淘汰されながら優秀な遺伝子を残そうと格闘してきた筈なのです、主にその役割はメスに与えられ、ありとあらゆる可能な限りをつくし、優秀なオスの遺伝子を手に入れようとしていると思われます。

 その一つに自らの安全という物がありそうです、すなわち強いオスのそばにいて身を守ってもらう事です。この事は同時に豊富な食べ物を手に入れるという事につながったろうと思うのです、すなわち安全で確実な子育てにつながるわけです。そして又母親の安全にもつながり、子を産む女性の価値観へと繋がっていったのであろうと思うのです。

 女系社会であった時代はさほど問題は無かったと思いますが、男性社会になってきますと自らの優秀さを示すための戦いがエスカレートし、大変な戦いとなりこれが原因で人口が減少するに及んで、一夫一婦制という社会形態が生まれたのであろうと思います。しかしこの制度は女性に強い忍耐を要求する事によって初めて成り立ったようです。

 「清く貧しく美しく」と言う言葉が生まれました。現代の若者(特に女性)がこの言葉をどのようにとらえるかわかりませんが、やはり男性社会が作りあげた女性を抑制し束縛するための言葉であろうと思います。自然界ではメスに認められたほんの少数のオスと、逆にメスに無視された多くのオスに別れるわけです、これが優秀な子孫を残す原則でしょう。

 もう一つ、「賢婦二夫に交わらず」と言う言葉です。女性は一人の男性としか肌を合わせてはいけないというのです、ここから処女という事柄も重要視する様になったのでしょう。しかし男性側からみますと女性を束縛するのに、こんなに都合の良い言葉も無いわけです。ですがこれももはや100パーセント崩壊したと言って良いでしょう。

 女性が優秀な子孫を残そうとする事が出来る、女性上位の女系家族社会が来つつあるように思います。ですがここで問題なのが子育てなわけです、やはり子を育てるという事は常に十分な食べ物の供給が絶対に必要なわけです、少なくとも子供は何らかの方法で保護されると言う原則が無ければ、健やかに育つという事には成らないでしょう。

 子育ては女性一人に任せるという訳にはいかない様です。介護と同じ様に何か特別な社会システムが必要な気がするのです、保護という事柄が絶対に必要とされる現実の前ではいかに道徳論を振り回しても解決にはなりません、人は集団としてしか生きていけない以上集団としてのシステム作りが必要だと思うのです。

 介護との一番の違いはこれから作り上げて行かねば成らない人格があるという事でしょう。肉体のケアーをする事が大きな要素を占める介護と異なり、心のケアーが中心となり人間形成をする事への助けが中心となることが、子育ての大変さであり重要な要素となることであると思うのです。そしてこれが一律であってはならないという事でしょう。

 集団(国家)が心のケアーに入りすぎては全体主義国家となりやすくこれも又問題となる事と思います。ここに母親の絶対的に必要な要素がある様に思うのです、母親の肌のぬくもりと言っても良いものなのかも知れません、子供に母親のぬくもりを感じさせながら、忙しい母親に代わって心のケアーをしてくれるシステムがあればと思うのです。

 私の住まいの近くにかなり大きな公園があるのです。毎朝6時過ぎのラジオ体操の時間になりますと70歳前後思われる男女が150人程集まって体操をしています。大変に元気な姿ですが、失礼な言い方かも知れませんが介護予備軍なわけです。ですが肉体が元気なうちはこの方々の知恵は大変なものがあるであろうと思うのです。

 家という単位で生活していた時は、必然的にあった幼児と年寄りの関係です。これを社会システムにしたら大変な機能を果たすにちがいありません、ボランテァとしてこの方々の能力を発揮していただいたら良いと思うのです。幼児の託児所から幼稚園小学校に至るまでボランテァとして活躍していただいたらどうでしょう。

 社会全体が権利意識を強く求めるために事故と言うものに大変に過剰な反応をし、その行動に萎縮の傾向がみられるようです。すなわち事故に対する責任と言うものに対し過剰な反応をせざるおう得ず、安全第一に萎縮してしまうという事です。何もしないという事が一番安全なわけですから、事なかれ主義になって行ってしまうという事でしょう。

 そこにこのお年より達の知恵を取り入れる垣根を作っている様に思えてなりません。多くの人がボランテァとして社会に関わりたいと思っているに違いないのです、ただ責任と言う問題が出てきた時、誰が事にあたるかという壁にさえぎられているのであろうと思うのです。結局権利意識の過剰が自らの首を絞めてしまったと言ってよいと思います。

 善意のボランテァと言うものの窓口に役所が成るのが一番でしょう。そう言った行動をしたいという人に、住民票のある区役所が許可証みたいな物を発行するのが良い様におもいます。特別な審査はする必要は無いでしょう、その代わり幼稚園なり学校の校長がやってみた結果ふさわしく無いと判断した方を断る権限を与えれば良いと思うのです。

 何事もそのシステムが確立するまでは紆余曲折はあるでしょうが、今の若者に一番必要な事柄は、今まで人類が長い間にわたって築いてきた生活に知恵と言うものが、伝承されていないという事のような気がして成りません。そこに色んな歪みが起きてきている様に思うのです、なんと言っても可哀想なのは若者達でしょう。

 なんとか幼児期のうちに年寄りが育んだ生活の知恵という物が自然と伝承されるような社会システムを作らなければならない時期にきている様に思うのです、もはや遅い時期にきているのかも知れません、しかし気が付いた時が始める時とか、思い付いたが百年目という言葉もあります、物事を始めるのに時期というものもないのかも知れません。

 何はともかく年を召した方の特徴は豊かな心にあります、年若い夫婦にはけして真似の出来ない生活感覚です。この豊かな心を幼児期の子供にどのようにして伝えるかという事がこれからの最も大きな社会問題のような気がしてなりません。何事もほんのささいな事が突破口となり広がりをみせるような気がするのですか?

 ボランテァで接した子供に、旅立つ時、介護の世話をしてもらったなどという巡り合わせが生まれたら、人生の終わりとして時間を、最高の心を持って迎えられそうな気がするのですが・・・・・


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