学校教育に思う事

 以前にも書いたと記憶しているのですが、第二次世界大戦後の日本の繁栄は国民の教育水準の高さにあったと思っている訳です。明治政府が作った色んなシステムの中でも学校教育というものは、その後の日本に大変な功績を残した一つと言って良いと思います。まさに大変な財産になった事だけはまぎれも無い事実でしょう。

 学校教育と言うものに二つの意味があると思うのです。一つは学問でしょう、そしてこれは曲がりなりにも行なわれているかも知れません。もう一つが心の指導、すなわち人間性の育成でしょう、そしてこれに関するかぎり完全に放棄されたと言っても過言では無いように思えるのです。もちろん学校だけの責任では無いかも知れません。

 明治の初期に学校が設立され義務教育と言うものが整備されてから(法的に整備された時期が具体的には知りません)、学問と人間性という二つの歯車は大変に上手く噛み合っていたように思うのです。ただ昭和の初期からの軍事色の強くなった時期に、歪んで用いられたために、心の教育がなおざりにされた傾向がある様に見られるのです。

 学問という事柄もかろうじて行なわれているかも知れませんが、現実には学習塾と言うものに完全に遅れをとり、実質的効果はほとんど失っていると言っても、過言では無いような気さえするのです。義務教育という規制の中で、安閑として過ごしてきた歪みが、一斉に吹き出して来たように思えてならないのです。

 太平洋戦争後、心の問題に触れる事に臆病になってきたように思えます、全体主義国家と言うものになったが故の臆病さかも知れません、それも分かるような気がします。しかしながら、もう臆病にばかり成ってはいられない時期にきている様に思うのです。人は皆生まれながらにして人では無く、心を育ててこそ人に成るような気さえするのです。

 それでも戦前の教育を受けた人々が多くを占めていた時代は、その教育の遺産があるために、社会はまだ上手く営まれていたように思うのです。しかし戦後生まれの人が大半を占める現代にいたっては、その遺産も使い果たしたと言っても過言では無いでしょう。もはや国民の中の教育という蓄積も使い果たした観を思えて成りません。

 小泉純一郎現首相が米百表の話を好んでしますが、現在の日本に最もひつような改革は文部省を頂点とした学校行政そのもののような気がしてなりません。義務教育という法律を整備したがゆえに、何の努力をする事無く子供を集め、思考し組織を改善する事無く、漫然と同じ事を繰り返して来たが故に大きな歪みが表面化したように思うのです。

 人はまず食べることでしょう、ですから経済改革をまずはやらねば成らない問題である事は疑う余地は無いかも知れません。ですが米百表の話は、その米を売ってお金に変え学校を造り国家百年の計を作ったという話ではないですか、だとするならば文部省を頂点とする学校行政の改革という事ももっと考慮すべき事では無いかと思うのですが。

 太平洋戦争が激しく成り出した頃、国家予算をより軍事費の振り分けるために真っ先に削られたのが教育予算だという事です。国が滅び行く時は教育というものがなおざりにされるのかも知れません、明治の初期ははなはだ貧しかったはずです、その貧しさの中で学校を整備し、人間性を養う学校教育に力をいれた先人を見習うべきでしょう。

 太平洋戦争に敗れ、物質的には多くのものを失い、食べられない状態にまで追い詰められました。人材としても特攻隊を初めとして多くの若者を失ったかも知れません。しかしながら、明治以来蓄積されてきた国民の教育水準の高さは、国民の大変な財産として残ったのです。バブルといわれるまでこの知識を資産に変え繁栄したのです。

 しかし物質的繁栄と引き換えに、心の豊かさを失ったようです。いや余りにも急激に物を失ったがゆえに、豊かさとは物が豊富に成る事と思い、はなはだ偏った志向におちいってしまったのかも知れません。短時間の間に大正デモクラシーと言われた時代から、全体主義、そして敗戦から食料難といった極端な経験をしたからかも知れません。

 人は心という目に見えないものよりも、明らかに確認できる物質というものにその価値観を求めていったのでしょう。私が物心付いた時に我が家に有った物はラジオだけだったのです、それが私の青春時代にはテレビ冷蔵庫洗濯機まである様になっていました。そしてカラーテレビクーラー自動車と増えていくのにさほど時間はかからなかったのです。

 バブルといわれた時代にその頂点を極めたようです、10年ちょっと前の事です。それはまさしく太平洋戦争で兵隊として第一線で戦った人達が、経済と言う場からも退いって行った時期なのです。まさに戦前の教育を受けた人々の知識と英知が作り上げた物の豊かな日本であり、経済の繁栄と言っても過言では無いと思うのです。

 ただ残念な事には、餓えというあまりの貧困というものを経験してしまったが故に、物質というものに偏りすぎてしまったという事が言えそうです。しかし一歩退いて、そういった極端な経験というものを考慮すれば当然の事と言えなくもありません。その時代その時代良かれと思って行動し前進したのだと思うのです。

 どうも日本人は極端から極端に走るのが好きなのかも知れません(私などはその典型的な男です)、同時に全体主義というものを経験した事からくる心というものへ関わる恐怖というかアレルギーのようなものの存在だったのだと思います。それが心というものを育成しないで、物の豊富さだけの追求になっていったのでしょう。

 心の崩壊はかなり進んでしまっている様に思います、そして経済の繁栄という物質文明も不景気という名のもとにかなりの勢いで崩壊している様です。しかし経済の繁栄という事こそ何か偽りのような気がしてなりません、生命体は全て生き抜くために必死で戦っているわけです、生きるという事が安易であるはずが無いのです。

 人が人であるためにはまずは心の豊かさが必要な気がするのです。他の生命体ともし違う事があるとするならば、人には心という人間性があるという事であり、それが豊かであるという事に他ならないと思うのです。そしてそれは個々で育むという事は大変に難しく、集団の方が数段に育みやすいものである、という事でもあると思うのです。

 太平洋戦争前の学校教育には、その人間性を重要視し育成した実績がある様に思うのです。今またその原点を振り返り、現代社会にあてはまるシステムを考案し、学校教育というものを改革しなくてはならない大変な時期にきていると思うのですが・・・?

 


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