人生における成功の秘訣を伝授して(若者からの質問)

 HPを読んでくれたと若者からのメールで一番多い質問です。どのように答えたら良いのでしょう、たぶんHPを読んでメールをくれた方は、私の事を成功者と思ってくれたので有ろうと思います。で有るからして私のこの様な質問をくれたのであろうと思います、その事自体大変嬉しく思いますし、その評価を素直に受けたいと思います。

 しかしながら人生の成功とは何なのでしょうか?人にはそれぞれの目的があり喜びも方も違っている様に思うのですが?私は歯医者でした、いや厳密に言えば今でも歯医者です。ただ本人は引退したつもりでおり、子供も歯医者になった事だし、もはや自分の時代は終わったと思っているのです。まあ幸いにして事業家になれたと言う事も大きいでしょう。

 歯医者になったのも不思議な感じがします。高校三年の6月であったと記憶しています、母親がぽつんと言ったのです「歯医者になったらどうだ」と。56歳の頃針仕事をする母親の側で、和服のほどき物や毛糸のほどき物などをよく手伝っていたのです(よく憶えています)、昭和20年代の話です、物も無く貧しかった時代の事です。

 それでも我が家は恵まれていたようで、日常生活に困るような事は無かったようです。家業は製材所でした、他に田畑もあり農業も営んでおりました。外見からは裕福な家に見えたようですが実情は火の車で、負債を清算すれば何も残らないと言うような、いつ倒産してもおかしく無いというような状態が何年も続いたようです。

 とは言え、幼児期の私は大切に育てられ、おばあちゃん子でもあり、使用人も多かった事から、大変に内気なひ弱な子供であったようです。ただ母親が繕い物をしていると側に行き手伝ったようなのです。特に和服のほどき物や、毛糸などの絡まった物を決して切ること無く、時間をかけて丁寧に直していく根気のよさがあったようなのです。

 その事を思い出したのでしょう、母が言うのです「手先も器用そうだし、一つの事を飽きる事無く続けていける根気があるから、歯医者なんかどうだと」。医療というレベルで深く考えて言ったわけではないのです、ただ当時は歯医者の収入がよくなって行った時代でした。父はその収入の事を調べ私を歯医者にする事を賛成したのです。

 10才を過ぎた頃から、私も父の立場を多少は理解し、我が家の経済状態も知るようになってきました。父は一人っ子でした、話し相手がいなかったようです。まあリーダーですから孤独なのは当然と言えば当然なのですが、それで私を話し相手に選んだようなのです。10才の子供に分かるわけは無いのですがそれでも質問をしたと言うのです。

 父は言葉にしたかったのだと思います。思考というものは頭の中だけではなかなか広がらないものなのです、言葉にすると言う事はそこで一度考えると言う動作が加わるようで、会話するだけで新たな発想が浮かんでくると言う事は良くある事なのです。会話しながら思いもよらなかった展開になる事もしばしばです。ですから単に聞き役でいいのです。

 中学生ぐらいになりますと、かなりまともな会話になっていったようです、今事業を行なっている上での、臭覚のような感のひらめきは、この当時に養われたものなのかも知れません。高校生の頃は幾何学が好きで、設計の方に進みたいと思っていたようです。ところが自分の職業を選択するにあたって、父の生活が念頭から離れなかったのです。

負債の返済に追われながら、お金に苦しむ父の姿がある訳です。祖父から受け継いだ家業という物の流れが、製材所の経営というものに向かわせていたのでしょう。(父は画家に成りたかったとの事です、晩年は絵を書いて過ごしており、県の展覧会に入選したりしています) これは時代という背景と運命としか言いようのない事柄だと思います。

負債に追われたお金に苦しむ生活だけはしたくない、これが私の職業を選択する基準でした。と同時にリーダーとして一族郎党を引き連れて、皆を幸せにしなくてはならないという使命感のようなものも養わされたようです。幼児期からの自然な流れの中で周りから教え込まれたものなのでしょう、自分の事は後から考えるようになった様です。

父は自分の職業を継ぐなとは良く言っていました、同じ苦労はさせたくないと言うのです。当時の私は経済的安定を一番に求めたのだと思います、医療関係の仕事は現在よりも数段に経済的に恵まれていました。自分の周りの人を幸せにするに足りる収入がある様にも思えたのも事実でした。入学試験の半年前に方向転換をした訳です。

粘り強いという性格は私の一番の武器だと思っています。その唯一の長所を見抜きアドバイスしたのはなんと言っても母でしょう、幼児期の性格から与えたヒントは親ならではの物かも知れません。理屈を言う男でなく、女の感性のなせる技と言った方が的確なような気がします。又祖母に可愛がられたおばあちゃん子であった事も幸いでした。

歯科大には何とか合格できました、それもすれすれのやっとだったろうと思います。100%無知の世界です。授業で口腔力学(噛む力の事です)という言葉が出たのです、私は航空力学ととらえ、歯医者が何でお空の事が必要なのだ、と思った次第です。そのぐらいひどいものでした、まあ「医療とは何ぞや」からはいるしかなかったのです。

歯医者の事柄は以前にも書いていますのでここでは省きたいと思います。ですが歯科医として一番役に立ったのは、母の側でほどき物をした根気のある性格であったような気がします。幼児期の性格からアドバイスした母の感性のたまものと言えるのかも知れません。頭脳としての基本的能力はどちらかと言えば劣っている私にとって。

もう一つは祖母の愛情でしょう。もはや善悪を通り越した盲目的と言って良いような絶対的愛情です、これが人に接する基本になっているような気がするのです。これは人として大変な財産であると思っていますし、歯科医として医療行為にたずさわった時の心の基本になっていたようにも思えるのです。「名医となれずとも良医たれ」と言う事の。

40歳少し前にどうしても事業家にならざるを得ない事件がおきました、もはや私の運命としか言い様のない事柄の様です。嫌も追うも無くこの道に入って来たわけです、結果水を得た魚と言いますか、蛙の子は蛙といいますか、今の所順調にきている訳です。振り返って見れば不思議です、まあ回り道をしたと言う事かも知れません。

豊臣秀吉は草履取りを一生懸命やって天下を取ったといいますが。天下の事を考えながら目先の草履取りをやったからこそと思うのです。将来の目標を考えながら、目先の問題に取り組む、この二つが相まって結果が出たときに「花が咲く」ような気がするのです。


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