裁判官の淫行条例違反に思う

 前にも書いた事ですが、太平洋戦争後の食料管理法を守りぬき、栄養失調で死んでしまった裁判官は有名な話です。私は基本的に法の番人としての判事とか検事というものは、こういうものであろうと思います。正しいとか間違っているとかに関わらず、国民に守らせるべく監視するのが役目なのですから、自を厳しく管理するのは当然の事と思います。

 学校の先生がこの条例違反で逮捕されていますが、この場合は道徳論が先行します。勿論、法を犯したわけですから、基本的には間違いであり、当然の事ながら罰せられるわけですが、まあ、一般人よりは風当たりが強い程度で良いと思います。そして国家公務員の方々がこれに続くのでしょう。しかしこれはあくまで道徳論としての話です。

 しかし、法というものに直接たずさわっている方々は、この話とは別です。あくまで法を守らせる事を仕事とし、そのことを生活の支えとしているわけですから、自分の人生の中心に置く事柄であると思うのです。何を捨てても、守っていかなくては成らない事柄のはずでしょう。ですから食管法を守りぬいてなくなった判事もいたわけです。

 少なくとも、淫行条例を守ると言う事は命がけではありません。人間の三大欲望の一つではあるかも知れませんが、餓えというものと比較すれば、論ずるに値する程の事でも無いと思います。しいて言うなら、性の情報がはなはだ氾濫し、現代社会が抱えている一番大きな歪みであり、そういう意味では同情の余地は十分にあるとは思いますが。

 法の原点は、我々の生活の貧困から来る歪みを、是正するために作るものである事は、間違いの無い事実であると思います。ですから無い方が良いと言う事も又事実であるはずです、やむを得ず必要悪としてとらえている部分もあると言う事です。食料管理法などというものはその代表的な例で、貧困を解決すればすむ事柄ですから。

 しかし、個人の能力にも又限界がある訳です。食べ物の中身、すなわち添加物とか、消毒という問題から来る薬物とか、又衛生上から来る細菌による食中毒の問題と、これまた例に上げれば際限なく問題がある訳です。これらの事柄を個人の責任において行動するのでは、経済的にはなはだ高い物につき事実上不可能な事になると思います。

 やはり、人が集団で効率的に生活しより生きやすくするという意味でも、規制の必要性は生まれて来ると思います。ただしこの規制というものは合理主義という、我々の生活が生んだ、合理性の追及のたまものであると言う認識が必要でしょう。であるからして、間違いもあるし、行き過ぎもあって、常に修正しようとする意識が必要であると思うのです。

 私が最も強く主張したい事は、法律というものを絶対視してはならないと言う事なのです、守り抜きながらも疑問をもつという心が必要だと言う事です。そして時代に合わせながら改善しようとする姿勢が最も重要だと言う事なのです。時代により貧しさの度合いが異なり、それに合わせ合理主義から来る規制も変えなくてはならないと言う事です。

人類は豊かさを求めながらも、反面合理主義という名をかりて、いかに怠けるかの追求も知らず知らずのうちに、求めている様にも思うのです。その結果、心の貧困から始まり、物質の貧困にもつながっていくような気がするのです。個人の場合は目立つわけですが、国という単位で見ても、時間的な長さがあるだけで結果は同じ様に思うのです。

しかしそれも変化の一部でしょう。時の流れと共に移り変わっていく事柄の一部でしかないのです。私達はその中で何を受け入れ何を拒否するかも、時代と共に移り変わって行くものであると思います。それでも規則という束縛がなくなるという事は決してなく、人類が続くかぎり規則も又続く、という事に疑問を抱く人もいないでしょう。

怠けるという事と束縛を受けると言う事は、相反する事なのかも知れません。しかしどちらも原点は合理主義という事になるのだと思います。人というものはそういったあやふやな所で、バランス良く生きようとしているのかも知れません。何処まで追求してもあやふやな玉虫色であり、「人生とは何ぞや」という追求が永遠に続くのかも知れません。

しかし現実の生活の中ではどこかに一線を引かざるを得ないのだと思います。身近な所では交通ルールがそうでしょう、乗り物には制限速度というのがあります、高速道路がどうして100キロ制限なのか、都会の道路が40キロとか50キロ制限の理由もよく分かりません。何処かに一線を引かざるを得なくて引いていると言っても過言なのでしょうか?

しかし日常生活で、制限速度というものを正しく守っている人は、皆無と言っても許されるのではないか、と思えるのが実情だと思います。私も制限速度違反でつかまり、罰金を払った経験は10回ではすまないだろうと思います。最もこの5年ほどは、ほとんど車の運転はしていませんので、若い頃の話ではありますが。

そして捕まった人は運が悪かったと言う意識しか持てないのも現状でしょう。逆な言い方をしますと、全ての車が制限速度というものを正確に守って運転していたら、いたる所に渋滞が起こり、経済活動に大変は支障をきたし、不景気になって行く要素をより多く与える結果となると思います。実に不思議な仕組みだと思います。

裁判官が捕まった淫行条例というものも似たようなものかも知れません。捕まるのは氷山の一角だとの、うわさを何と無く耳にします、そしてその通りだろうと思えるから不思議です。水面下のアングラ経済の中で、かなりの数が行なわれているだろうと、思わないわけにはいかないのです。そして捕まった人は運が悪かっただけだと。

日本という国の社会システムの一番の弱点がこの辺にあると思うのです。守りにくい規則でも改善し様としない、ただ運が悪いで済ましてしまう。そして法を守らせている人まで法を犯してしまう、と言うような結果をもたらすのだと思います。結果、法を犯した裁判官にも実刑は下されながらも執行猶予が付くという事になるのかも知れません。

しかし私は、法を守らせるべく行動している人々が法を犯した場合、執行猶予などというものを付けるべきでは無いと思います。法律とは良し悪しを論ずる前にまず守るべきものだからです、その番人が法を犯すという事は情状酌量の余地は無いと思うのです。それが前提だからこそ大変な権限を与えられているわけでしょうから。

執行猶予という判決を下した判事も同じだと私は思います、法の番人としての自覚の欠如だと思うのです。しかしながらこの法律が現状の我々の生活に適していないという心の迷いの結果でもあるのかも知れません。この様な法律を作った我々の責任なのかも・・・?


戻る