テロという現実に思う事

 アメリカのニューヨークで起きたテロというものに、日本人も30数人(正確には知らない)もの人が巻き込まれたという事は、現代の象徴かも知れません。国家というものが薄らぎ、経済の上で戦っている企業というものが主体となり、国家というものを飛び越えて行動し、経済活動を行なっている証しかも知れません。経済に国籍は無いという事でしょう。

 経済活動という事だけを限定して見ますと、大変に平和な行為でありますし、人道主義のような気持ちにもなりますが、反面、富める者と貧しい者を生み、その格差が広がるという現実を見逃すわけにはいかないでしょう。国家間の対立から、富める者と貧しき者の対立に変化し、その現実的行為がテロという形になって表れている様に思うのです。

 ブッシュアメリカ現大統領がこのテロに対し、これは戦争だと言い、真珠湾の日本軍の攻撃と同等にとらえるような演説を行なっていましたが、貧しき者が富める者への戦線布告かもしれないとは、誰しもが考える事ではあると思います。戦争という認識は二十一世紀には変わり、貧しき者と富める者との戦いという事になるのかも知れません。

 人類の戦いは元々集団と集団の戦いでした。たぶん食べ物の争いから始まり、それが感情論を誘発し、又宗教というものをまで巻き込んでいったのでしょう。哺乳類は基本的に戦いを好むように思います、これは理屈以前の感性であり、持って生まれた本能と言っても許される事柄のようで、戦わずにはいられない何かがある様に思うのです。

 いつのまにか国家というものが形成されるようになると、国家間の戦いすなわち戦争という事になったのでしょう。二十世紀はまさに国家間の戦争の時代と言うのにふさわしい時代であったと思うのです。そしてその原点も富める国と一歩遅れをとった国(貧しいと言える程のものでは無いので)との戦いであり、総力戦という悲惨な戦いでもあった訳です。

 でもその基本は豊かになりたいという人の単純な願いでしょう。いやそれはもはや豊かさというものを通り越して、欲という事に成るのかも知れません、とにかく限りなき追求という事になっていくようです。これはいつの時代でも変わらない事なのかも知れません、ただその表現方法が変化していくだけなのかも知れないのです。

 二十世紀は富の象徴が領土の拡大でした、食料をはじめとして地下資源に至るまで、その基本は物が中心であったからだと思います。そして生産量の競争が起きたわけです、富の象徴が生産量の大きさであった訳です。結果、資源をいかに確保し、安定供給するために、領土の拡大がどうしても必要となっていった訳です。

 日本がアメリカ合衆国に宣戦布告した形になったパールハーバーにしても、日本は中国との戦に必要な石油はほとんどアメリカから輸入しており、現実的にはアメリカの支援の元で戦いを進めていたも同然の状態であった訳です。その石油が輸入できなくなるという経済封鎖という処置で、始めてしまったのがパールハーバーなのです。

 戦いの原点は常に経済なのです。ただ経済のあり方が変わっていくために戦いのあり方も変わっていくのです。ソヴィエト連邦という国家が消滅して以来、国家間の戦いというものは基本的に終わりをていした感があります。武器でもって領土を拡大するという今までの戦い方は終わったように思うのです、これはひとえに経済の変化なのです。

 国の豊かさという基準が、物の生産量から資本の大きさに、変わってきたようなのです。これはひとへに通貨というものの安定がもたらした結果だと思います、そして国家という垣根を通り越して、通過の流通が激しくなり、一企業体が国家をも上回る資本力を持つにいたって、国のあり方も変わってきた表れであろうと思うのです。

 それぞれの国家がどれだけの資本を持った企業を抱え、自国の通貨がどれだけの流通紙幣をもてるかが、豊かさの基準になってきたようなのです。ようするに為替というものです、これは資本量による強さの関係が、値動きにつながっていくわけです。そして当然の事ながら、世界経済においてもっとも重要な要素となってきたわけです。

 もはや、国家を富ますために相手を侵略し国土を拡大する必要性は無くなったわけです。とわ言え、富める者と貧しき者の存在が無くなったわけではありません。確かに鉄砲を撃ち人を殺しながら、豊かさを勝ち取る戦いは無くなったかも知れません。しかし豊かさを求める戦いはもっと激しくなっているかも知れないのです、資本というものを通して。

 富める者と貧しき者の格差は開くばかりかも知れないのです。テロとは貧しき者が富める者への戦いなのかも知れないのです、これが二十一世紀型の新たな戦い方なのかも知れないのです。国家間の戦いから、地球全体の富める者と貧しき者との戦いなのかも知れないのです。もはや戦いにも経済同様に国境というものが存在しないのかも知れません。

 経済という土俵で為替と言う資本での戦いに敗れた者にとって、他にどのような戦い方があるというのでしょう。平和という世界で腕力を否定された環境では、成すすべを知らない貧しき者にとって、彼等流の抵抗なのかも知れないのです。もはや銃を持って行動する事は20世紀の遺物であるにしても、時代に遅れる人はいるものなのです。

 現実の地球上はアメリカ合衆国を頂点とする形で、国家というものが営まれている事だけは明白でしょう。世界に流通している通貨の基本がドルであると言う事が全てを示していると思います。そして富める国の基本としてドルに対する為替のルートが全てと言っても過言では無いのです。富める国USAの判断一つとも言えるのかも知れません。

 日本は幸いUSAと仲良くしてきました、(これは過去の政治家の判断の賜物と思います)これが富める国の仲間入りができた要素な訳です。国民が餓える心配が無いという事は、地球上の現実からみて大変な事と思います、と言う事は富める者としての戦いの中に、否応無く入っていかなくてはならない、と言う事でもある訳です。

 二十世紀は化学が発達し我々の生活を大変に便利にしてくれました。その代表的なものが交通手段かも知れません、いまや誰しもが地球を一周するのにわずかな時間しかかからないと言う事です。しかし一方、便利と言う事は不便さも一緒に連れて来るようでもあります。その代表的な事柄が安全と言う事のような気がします。

 テロと言う事は、個人の危機管理能力を超えた所の事柄を、個人がやらなくてはならないと言う事かも知れないのです。我々は自動車による交通事故と同じように、運が悪かったと捉えるしか無いのかも知れません。とにかく安全にお金がかかる世の中のようです。


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