恵まれているとは?

 今、ふと思ったことなのです、恵まれているとはどういう事なのだろうと。私は実に運の良い男だと思って来ました、自分にそう思わせるだけの事柄を経験し、又与えられて来たように思えるからです。自分から求めていくわけでもないのですが、占いをするという方に何人も会う機会がありました。強運の持ち主ですねとは必ず言われる言葉です。

 今の自分の境遇は大変に恵まれていると思っていますし、過ぎてきた自分の人生にも満足していると思っています。とは言え前に進みたいというエネルギーは、まだ激しいものを持っているつもりでもあります。まあ現状は一次の通過点としての満足といった方が適切かも知れません、何処まで届くかという挑戦を楽しんでいる様です。

 今の若者の付き合い方は男女を問わず割り勘という事の様です。我々の時代は大体において男が払っていたように思います、良い悪いは別にしてその様な習慣であったとしか言い様の無い事柄のような気がするのです。これは単に習慣の変化としかいえない事柄なのでしょうし、基本的な生活形態の変化でもある様に思います。

 割り勘の原点は経済的自立でしょう、自立なくしてはお金を払う事は出来ないわけですから、常に相手に払ってもらう必要がある訳です。我々の時代には女性は自立しておらず、養ってもらっていると言う前提から、男性が支払いをするという習慣が生まれたのでしょう。女性の自立の賜物が何事も割り勘と言う習慣なのだと思います。

 反面、ほとんどの人が恵まれた環境にいると言う事でもある様です。私の学生時代はポケットに1銭の金も無いと言う人も少なくありませんでした、又そういう人が多くいたために特別恥ずかしい事でもなく、それで日常が成り立ったのです。当然の事として割り勘という形になるはずも無く、その時お金を持っている者が払うという形になった訳です。

 廻りまわって何となくバランスが取れていたように思いますが、お互いに助け合っていた様にも思います。まあドンブリ勘定でつじつまが合っていたという所でしょう。出世払いという言葉もありましたから、常に払ってもらっていた人もいたようです。ですが大変な恩義を感じ、何時の日か返そう思い恩を深くしていた事は事実です。

 別な言い方をすれば恵まれていなくともさほど困る事も無く、何となく仲間に助けられながら生活が出来た時代とも言えるのかも知れません。貧しさがさほど苦にならなかった時代とも言えそうです。それに比べて現代においてお金が無いと言う事は、割り勘という原則から仲間にも入れず、一人孤独な生活を強いられるのかも知れません。

 集団の生活共同体の中に入るために必死になってお金を稼ぐ必要が生まれているようにも思います。逆に恵まれているが故のお金に振り回されている生活がある様に思えてならないのです、それは心の貧困に繋がっている様にも思えるのです。お金が無いと言う事も程度問題です、貧困のあまり娘を売ったという時代までさかのぼれば別ですが。

 生活も又バランスなのかも知れません。まあまあ助け合いながら、それ程お金に執着する事無く生活できる程度の貧しさが心を豊かにし、勤勉に働きながらも質素に生活する事が、人としての幸せというものかも知れないと思う今日この頃です。


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