核家族の弊害

 若者と話すと必ず聞き出す事があるのです、話の流れの中で幼い時の話題に触れ、それとなく家族構成を聞き出すのです。最近何となく、幼児期に年寄りとの触れ合いがあったかどうかに、大変に興味があるのです。その人の性格に大きく関与しているような気がしてならなかったのです、そして私が想像していたような結果の答えを得た様なのです。

 幼児期は母親のぬくもりが必要だとは必ず言われる言葉です。母の乳房に触れその感触が大切だという事に意義を言うつもりはありません、ですが日常の時間の過ごし方に無理がある様に感じてならないのです。幼児の時間のスピードと母親の時間のスピードが合わないような気がしてならないのです、母親は忙しすぎるのです。

 専業主婦であった場合でも、どうしても自分の速度で行動し、子供にもその速度を要求してしまっている様に思えてならないのです。ついつい「早くしなさい」と言う言葉をはいてしまう事が多くなってしまうようなのです、言葉にしないまでもその様な態度になってしまうのは、多くの母親の経験している事ではないでしょうか?

 特に現代は母親も働いている場合が多いようです、そうなるとなお更時間に追われながら生活している事が多くなるでしょう、当然の事として「早く」という言葉の連続になってしまうのは止もお得ない事なのでしょう。子供は親の顔色を見ながらいい子になろうとして懸命に闘争するわけです、確かに闘争心の旺盛な人間になるように思います。

 競争とは何か課題を与えられてそれを競い合う時に起こる行為です。学校では成績優秀で行動もすばやくて先生の評価も高く、当然の事として良い結果を得ます。それは相手の望む事を敏感に察知しその対応が上手くなっているに過ぎないように思うのです。もう一歩進んで、自ら判断し行動しなくてはならない時、戸惑ってしまうような気がします。

 それに引き換え年寄りと多く時間を過ごした子は、どうしても行動がゆっくりです。それは自分の速度で考え自分の速度で行動するからです。時間に対する感覚が幼児と年寄りは似通っていると言えると思うのです、簡単に言えば年寄りは待てるのです、この待つという行為がとても大切なような気がするのです。自立心の原点のような気がします。

 子供は決して年寄りの顔色をうかがうという事はしません、あくまで自分の判断で行動します。いや自分で判断つくまで行動しないと言った方が適切でしょう、当然時間がかかるわけです。自ら行動するという事は時間がかかるのです、大人になっても未知の世界にいどむ時は第一歩を踏み出すには多くの時間を必要とするではないですが。

 幼児にとってほとんど全てが未知の世界でしょう、その世界に全ての道しるべがあり、単に早く進む事に集中できる子と、一つ一つ自ら判断し迷いながら進む子では、当然の事ながらその速度は違ってきます。ですが人生、道しるべがあるのはわずかな時間でしか無いでしょう、その後は戸惑う人生が生まれてしまうのかも知れません。

 現代はマニアルの無い時代です。自ら考え判断していかなくてはならない事がより多くなる時代でしょう。三つ子の魂百までではないですが、幼児期の体験がより重要な時代になっているような気がしてなりません。より自主判断の高い者を必要としているのでは?


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