基本能力が低いという安らぎ

 これは家内も知らない事かも知れない、いや伝えた事があるかも知れないが覚えていません。実はかなり大きくなるまで夜尿症のくせがあったのです(子供に遺伝しないかと心配したが、それは無かった)、小学校6年の夏に山形の片田舎から東京に転校した時は、まだしていましたから、何となく抜け出せたのは中学に入ってからの事です。

 夜になって眠り、夜中に目を覚ませば蒲団が濡れている、その結果涙を流す。これは毎日繰り返された一連の動作でした、365日です。こうなると涙を流すのも反射神経のようなものです、悲しくて泣くよりも泣くのが義務のような感じとでも言いますか、当然の事として涙が流れてきたのであろうと思います。父には大変な剣幕で叱られました。

 叱られても本人にはどうしようもない出来事なのです。出来事と言いますと他人事のように聞こえますが、本人にしてはまさに他人事なのです、自分の意志とは違った次元で起きている現象なのですから。これから逃れるには眠る事を拒否するしか方法が無いとすら思っていました、しかし現実にはそれ程追い詰められたわけでもありません。

 私は物心ついた時には祖母の蒲団の中で寝ていました。すぐに妹が出来たと言う事や、四世帯が一つ屋根の下に住み、その上使用人も多くおり20人弱が共に生活するという形態だったからでしょう。その上、男は私一人で後継ぎとして甘やかされた事は事実です、内弁慶のひ弱な子供であり、家の中ではいたずらっ子であったようです。

 そんな夜尿症の子供をかばい続けてくれたのも祖母でした。毎日蒲団を干し、下着を洗濯してくれたわけです、雪国(山形です)ですから冬は大変です、木をくべるストーブ(製材所でしたから薪は豊富でした)で乾かしてくれたのでしょう。小学校に入ってからも、毎日のように忘れ物です、宿題をやらずに行って立たされた事もありました。

 そんな劣等生でしたから、自分には出来ないと言う事が日常であり、失敗の連続であったのでしょう。小学校の2年生の時です、教室のゴミ箱のゴミを捨てに行って、またしても途中でこぼしてしまったのです。本人は大慌てになりホウキとチリトリを使っていたようなのですが、たまたま担任の先生に見られたのです。もう涙が出ていたでしょう。

 「人は誰でも失敗をする、その後始末が大切なのだぞ」と言いながら、一緒にホウキを使ってくれたのです。ふだん叱れてばかりいる先生に誉められた事の感激は大変なものだったのでしょう、正直に生きると言う事が身に付いたようです。「正直さ」と言う事が、それからの私の人生に対し、大変な武器になった事は言うまでもありません。

 とは言え、なんと言っても祖母に育てられたと言う事が、大変な幸せだったと思います。今日の核家族の母親は、自分よりも大きくなった子供が、毎晩「おねしょ」をするという行為に耐えられるでしょうか?逆に母親の方がノイローゼになってしまうのではないかと思うのです。夜尿症が医療の立場でどの程度対応できるのかは知りませんが。

 テニスの大会に出てもなかなか勝てません、普段の力が出せないのです。本当に精神的に弱いのです、基本的能力の低さを感じます。でも虚弱体質(精神も含めて)の自分が良くここまでたどり着いたな、と思を抱きながらヨチヨチと又前に進むわけです。


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