レッドカード!

 ワールドカップだそうである。「ニッポン、ニッポン」と手拍子を入れながらにわかフアンになった一人です。国立競技場の側に住んでおりあの青一色の姿を見ると、余計にその影響を受けるのかも知れません。オフサイドというルールもよくわからずに、とりあえずあのゴールとやらにボールが入れば良いのであろう、という程度の知識しか無いのですが。

サッカーの世界大会で四年に一度、開催されるとの事である。私は太平洋戦争の終わった翌年の生まれです、当然の事としてプロ野球全盛の時代に成長し、巨人、大鵬、卵焼き、と言われた時代に青春を送った世代です。結果、今も野球フアンで巨人をひいきの一人です。それでも何時の間にか「ニッポン」と手拍子をしている自分がいるのです。

とにかく、興奮するのです。日本を応援しようとするだけなら、オリンピックやらその他色々と経験しているはずであるが、何かが違うのです。二時間弱の時間をテレビの前から離れられずに居て、トイレも我慢している自分が可笑しくもあるのですが、腰をもぞもぞさせながら耐えているのはまさしく自分なのです。

何かちょっと目を離した隙に「ゴール」と言う声が聞こえてくるものなら、何か莫大な損失を受けたような衝撃を受けるのです。必死にテレビにかじりついていたのに、わずかな隙に得点され、その瞬間をビデオで見るむなしさはこの上も無いのです。その一瞬の感動に共に浸りたいと思わずにはいられない何かがあるようなのです。

最初はボールばかりに目をやっていましたが、なれるに従って全体に目をくばるようになると、審判の目の届かないところで反則をしているのです。サッカー選手にはスポーツマンシップは無いのかと腹を立てていましたが、それはそれで面白いと、なぜか思う様になったのです。審判を欺くのも一つの技術と思えたのです。

審判の目にとまらなければ何でも有りの世界が面白いのかも知れません。これがテニスのようにあらゆる所に審判がいて、厳しく反則を取り、笛のなる回数が多く、その都度ゲームが中断していたら、つまらないゲームになってしまうのかも知れません。まあ反則をしながらも、審判の目をごまかすのも能力として認めた所の、面白さかも知れないのです。

生命体としての人の闘争本能というものかも知れません、そしてこれが人間社会の現実かも知れないと思ったのです。サッカーというゲームに、日々の生活をだぶらせて見ているが故の興奮かも知れないのです。知らず知らずのうちに引き込まれ、なんとも言えない興奮に包まれて行くのは、人の心に火を付ける何かを感じるのです。

ひとたび審判の目にとまり「レッドカード」を出されては、万事きゅうすです、速やかに退場するしかありません。どのような成果を上げていようと、どのような名選手で有ろうと、逃れるすべは無いのです。ましてや、誰もがやっている事だなどという言い訳は、見苦しい以外の何ものでも有りません。素直に消え去るしかないのです。

男性の衆議院議員は「レッドカード」であり、女性の衆議院議員は「イエローカード」なのでしょう。が、サッカーの選手のような潔さは無いようです。この見苦しさは、政治の世界の方が数段遅れている証拠かも知れません。


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