カーニバルに想う

 「お祭り」と言ったら、最も先に思い浮かべるのはリオのカーニバルでしょう。あの華やかさと言い、セクシーさと言い、見ているだけでも応えられない興奮を憶えます。もちろん性的興奮を感ずる事を否定するほど「やぼ」では無いですが、それを超えた所の興奮と感動を得られるのも事実でしょう。女性とて、同じ思いではないでしょうか?

 子供の頃、一番の思い出はなんと言っても「夜祭り」ではないでしょうか?何をするでは無いのですが、わずかばかりの小遣いをもらい、簡易のガス灯の何か異様な明かりに照らされた駄菓子屋での買い食いに、興奮を覚えたのもでした。10才未満の子供心にも、夜という暗闇に何かが起きるような感覚を感じさせたに違いないのです。

 「三大祭り」とか言われ仰々しく取り上げられている祭りもあれば、片隅でほんのささやかに行なわれている祭りもあるでしょう。日本だけでもどれだけの祭りがあるでしょうか?かなりの数に成るにちがいありません。ましてや、世界中ともなればどれだけの数に成るのか見当も付きません、いや民族の数だけ祭りがある様に思えます。

 そしてこの祭りというものに世界共通の三つの行為がある様です、「お酒」と「踊り」と「朝から深夜まで続く」という事です。お酒と踊りは祭りの付き物として論ずるに値しないでしょうが、私が不思議に思うのは、どうして明るいうちに祭りが終わらないのかという事です。逆に言えば夜という「暗闇」が何故必要であったかという事でしょう。

 人類の歴史は餓えとの戦いであったようです。自然の木の実を採集する事から始まり、魚や動物の捕獲、そして農作業から得る穀物から家畜の放牧へと変化して行ったのかも知れません。そしてその中に何時の間にか「お祭り」という現象が組み込まれていったようなのです。そしてその時期も又共通のかかわりを感ずるのです。

 多くの場合、と言うより必ずと言っても過言でないようにすら思いますが、食べ物をたくさん手に入れた後に「お祭り」を行なっているという事です。人類は何時の時か食べ物を保存するという事を憶えました、これは生きるという事の安易性につながったでしょうが、反面略奪という現象を導く結果にもつながったようです。

 人類が集落という単位で暮らすようになった時、いかに他の集落と戦い自らの集団を守り繁栄させるかという事にしのぎを削ったに違いないのです。そしてそれにたけた集団のみが生き残ったと考えた方が妥当というものでしょう、そしてそのシステム作りに「祭り」が大変な貢献をしている様に思えてならないのです。

 集落の繁栄の為には、まずは食料です。そしてその収穫、あるいは捕獲がすんだ後に「お祭り」が行なわれるのです。これで食べる心配が無くなった、今度は他の集団との戦いのために優秀な子孫を残す事だ、さあ「子作りに励め」という事に成るのでしよう。そして「優秀な子孫」という事へのシステムが「お祭り」にはある様に思えてならないのです。

 子作りという作業の中に人の感情が大いに含まれるのは何時の時代にも共通した事柄でしょう、そしてこの感情は女性の心が大いに優先されたに違いないのです。きっと「選ばれた男性」のみが、その子作りの作業に従事できたに違いないのです。とは言え、感情の前に優秀な男と言う前提をつくらなくてはならない訳です、問題はその手段です。

 当時の男の役割として最も重要なものは、他の部族との戦いであったにちがいありません、まずは頑健な男でなくてはならない訳です。その選抜に「酒」と「踊り」が大いに役に立ったに違いないのです、酒を飲みながら踊るという事は大変な体力を必要とするからです、それが朝から深夜までともなれば、かなりの男が脱落して行ったに事でしょう。

 もちろん、戦いには知恵も必要です。その酒と踊りの中で、深夜に行なわれるであろう事を思い浮かべ、体力を温存する男もいた事でしょう、これが知恵者になったに違いありません。その過酷な酒と踊りの消耗戦を掻い潜り、残った男がその候補に成れたのでしょう、でもそれからが問題なのです、まだまだ大きな壁を越えなくては成らないのです。

 そこに深夜という「暗闇」が登場するわけです。子孫を残すという問題にはまず頑健な母体が必要です、そして出産という行為は一代事業であったに違いありません。当然ながら女性は大切にされた訳です、子供をたくさん産んだ女性の地位はおのずと高くなったに違いないのです。その辺から「母性愛」という言葉も生まれたような気もします。

 当然の事として、子作りという行為にも女性の感情が大切にされたに違いないのです、そしてまずは女性の「安全」です。その安全という行為に「暗闇」が大変に重要な役割をはたしている様に思えるのです。声を出せば聞こえるという事がその大きな要素なのです、当時でも人の目のある所で行為をするという事は憚れたのでしょう。

 人の目を避けるためには、明るい間では「隔離」しなくてはなりません、これは逆に女性の安全を妨げるという結果をもたらすのです、叫べば聞こえるという距離が安全を保障する訳です。集落では全て顔見知りのはずです、そんな中で女性に大声を出されたら、男はどのように行動したら良いのでしょうか?安全が保障される訳です。

 とは言え、女性に素適といわれる男と言う者はわずかなはずです。そのわずかばかりの男性の取り合いになったという事も何となく想像するに難しくは無いでしょう、それは男の行為そのものに多少の能力差があっても所詮限界があると言う事です。ひきかえ、女性は無限大に近いという事も何か自然界の偉大さを感じずにはいられません。

 優秀な子孫を残せた集落のみが過酷な闘争に勝ち残り人類として地球上に存在している様です。我々は、お祭りの晩に、多くの男を受け入れたであろう女性の子孫であり、多くの女性と交わるべく努力したであろう男の子孫である事は間違いないのです。ただ時代が進み近代化と共に武器が優秀になり戦いがより悲惨になったのです。

 結果、戦いを避けるための知恵が発揮されたのでしょう、一夫一婦制という制度をあみ出した訳です、しかしこれには大変な規制が必要であったのです。元来メスは優秀なオスのみと交わり、優秀な子孫を残そうと意志が働くわけです、まずこれを規制しなくてはなりません、このために大変な忍耐を要求する結果となったのです。

 男に従属させる為には、女が一人では生きて行けない社会構成をつくる必要があった訳です、「女が自立できない社会」という事になる訳です。結果、男にすがって生きる女の形が出来上がった訳です。元来、弱い男の尻をたたき「貴方は男でしょ」と言い、「忍耐は美徳だ」と女を縛って、やっと成り立った制度なのではないのですか?

 現代の日本は食べ物が豊富なようです、食べるという事の心配はいりません。「男でしょ」と言う言葉も「忍耐は美徳」という言葉も聞きません、その上、女性は自立して豊かに暮らしている様で、男に頼ろうともしていないようです。ましてや貧しい生活に耐えるなどという発想は最早過去のもの、これからどのような社会構成に成るのでしょうか?

 大都市の繁華街は毎晩「お祭り」状態なのかも知れません、そこはきっと女性上位の社会なのでしょう。多くの弱い男はさまよっている様です、わずかばかりの力(お金)をポケットにしのばせて。まさに「迷える子羊」なのかも知れません・・・。

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