女性は口説かなくちゃあ!

 イタリアの男は「あいさつ代わりに女を口説く」などという事を耳にしたのは、10代も終わりの頃のような気がする。男子校の高校から大学へと進み、少ないながらも女性と同じ教室で学びながら、学問よりも女性に気持ちが行っていた、最も多感な時期であったように思う。ただし、どこまでもプラトニックにとらえている次元でしかなかったのだが。

 性行為まで含むであろうこの言葉を、少なからず軽蔑した気持ちでとらえていた事は間違いない、これは大変に進んだ「性の文化」だと感じたのは50歳も過ぎた頃からである。他人を蔑視したり罵倒する事は、いかに「己の未熟さからくるもの」かとは、最近特に感じさせられる事柄である、まさに無知の成せる業であろう。

 男の価値というものは「いかに女性を喜ばせられるか」にかかっているようだ、この世に女性がいるからこそ「男はがんばるのだ」という事だけは間違いないようである。そしてその究極は「ベッドの上でいかに喜ばせるか」という事に成るのであろうが、最早引退間近な我が身としては望むべくも無い事だ。ただ、青春の過ごし方を悔いるのみである。

 とは言え、女性を喜ばせようとする意識を無くした訳では無い、いや逆に多いに湧き上がっているようにも思われる。男と言う者は、その能力が少なくなれば少なくなる程、そのわずかばかりの能力にしがみつき「いかに己を表現するか」を頑張るようだ。それがついえた時は男としての闘争心を喪失した時であろう。

 ただ、その喜びのとらえ方が変わって行くような気がする。今起きている事柄よりも、過去の思い出としていかに心に残すか、という事になりそうだ。その価値観がプラトニックな世界へと導かれるのであろう、ようするに「心の隙間をいかに埋めていくか」という事に成るようだ、年と共に思い出として過去を振り返るという事になるのだろう、が。

 女性は逆に喜びを与えられたいと思っている様に、男の私には思われる。もっとするどく言ってしまえば「喜びは与えられるもの」で「自ら勝ち取るものでは無い」とすら思っているようだ。そうしてその喜びの大きな要素として「口説かれる」と言う行為がある様に思える。ならば男たる者、その喜びを与えなくては成らない義務があるのではないか?

 ただ、プラトニックであるためには、性行為にまで及ばない方がいい、もし及んだとしても相手に失望を与えるにすぎないだろう、ならば上手に断れる事だ。そこによき思い出としていかに残してもらえるか、という事になるのだろう。問題は口説いた時の相手の印象だな、いかに素適なおじさま(おじいちゃんかな?)と思ってもらえるか、だ。

 嫌な男に口説かれた「汚らわしい」ではどうし様も無い、まして「セクハラよ」などと言われてはなにをか言わんや、である。「どうしてそこで退いてしまうのよ、もう一言いってくれたら、私、同意したかも知れないのに」などと思ってもらえたら、男として最高だ。その上、残る余韻と共に思い出として最高の喜びを与えられるに違いない。

 まずは素適な男と思われる修行があるのみのようだ。何時の世も女性を喜ばせるという事は「至難な業」のようだ、シーザーとクレオパトラの時代からの普遍の原則なのだろう。だからこそ、挑み続けられると言う「喜び」でもあるのだろうが。   15522


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