オシャレする喜び

 最近は自ら洋服を買ってくる事がしばしばだ、45年前には考えられない現象である。買い物といえばテニスショップ以外は縁の無い存在であった私にとって、たとえ通りすがりとはいえ、洋服屋さんをのぞくという事が考えられなかった。いつも同じ洋服を着て家内に叱れていた、他の洋服もあるのだか違った物も着て「あたしが恥ずかしいでしょ」と。

 オシャレも己の一表現として楽しめるようになった事だけは確かである、いやますます増加傾向にあるようだ。人は誰でも晴れの舞台に立ちたい、人の視線を感じたい、とは常に思っているだろう、その最初の入り口がオシャレのような気がする。街を歩きながら、通りすがる人の視線を感ずる時、「心躍る」のはその第一歩に違いない。

 子供の頃から貧弱な体型であった私にとって、その視線は逆に蔑視にすら感じていたようである。特に思春期の入り口であった多感な中学時代の、プールの授業が嫌で嫌で成らなかった、心にくからず思っていた女性徒の前での裸が嫌であったのだ。その劣等感の反動で人生観に傾き、本を読み理詰め会話にのめり込んで行ったようだ。

 当然の事として、意識的に服装には無頓着になりバンカラとは行かないまでも、オシャレとは程遠い生活をしていたように思う。それでも一時的ではあるが、表参道から赤坂、六本木にかけて、当時ディスコと言われた夜遊びの場所に通った頃に、多少のオシャレらしき事をしたようだ。唯一、淡い青春の思い出かも知れない。

 細身で猫背の体を白衣に包み、歯科医として仕事をする姿が一番似合っていたのかも知れない。ただ唯一、手だけは綺麗と誉められていた、自信を持っていたただ一つの身体であった。指が細いと自信を持っていた女性の指輪が、ほとんど指に入った。歯医者の指として患者さんの口の中に入りやすい、職業的にはうってつけの手であったようだ。

 でも今はその面影すら手には無い、かなりゴツイ手になっている。反面、体型は筋肉質のがっちりした姿になっているし、なんと言っても姿勢が良い。頭から背骨、腰とほぼ一直線に並んでいる、いわゆる脊髄の歪みが修正され、ほぼ理想的な状態に並んでいるであろう、と言う自信がある。この自信というものが恐ろしいようだ。

 オシャレの原点はここにあるような気がする、何を着ても似合うような錯覚を持ち始めているのである。結果、なにを着ても堂々と表現してしまうものだから、なにか似合ってしまうような錯覚が起きてしまうのではないだろうか?心にしても行動にしても、萎縮してしまうという事が醜くしている原点かも知れないとも思う。

 シャワーを浴びた後、全身を鏡に映し、悦に入っている自分がある。若い女性が「自分の裸体を写真にして残しておきたいという誘惑がある」という話しを聞いた事を思い出し、それをどこかで納得している自分があるのが恐ろしい。最高のオシャレって何も身に着けない事かも知れない、などという考えが浮かぶのが又恐ろしくもある。

 この夏は、若いお嬢さんの向こうを張って、ちょっと小さめのTシャツを着て、臍だしルックで街を散歩する事に挑戦してみようか?でも下はやっぱりジーパンだな、スネ毛を出すのは醜いだけだろうからな。                 15523


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